山田彊一 回顧展 ―若き日の挑戦と情熱の息吹―

山田彊一 回顧展
―若き日の挑戦と情熱の息吹―

個展パンフ裏

 2014年8月19日(火)〜8月30日(土)まで名古屋画廊にて私の回顧展が催されます。
写真右:個展パンフ裏
 現在名古屋画廊は改装中ですが、改装オープン記念に是非私の個展開催をと勧められ、今回の運びとなりました。名古屋画廊に出す作品は大きく分けて2種類で、一つは私が20歳から24歳に描いた婆羅門シリーズと、もう一つは25歳から29歳にかけて描いた現代餓鬼草子シリーズの合計30点程です。

 私は大学の1,2年生の頃は風景画や人物画を油絵具や水彩で描いていたのですが、19歳の時写実的な絵に飽き足らなくなって半具象で描いてみた作品が、この地で最大のコンクールで大賞になりました。ちょうどその頃フランス人の画家フォートリエが、ベネチアビエンナーレで大賞をとり「油絵具を用いた風景画や人物画なんてもう500年も続いている、ヘドが出る」と述べたことが私の脳天を打ち、すぐ抽象画への転向を考えたのです。

婆羅門シリーズNo.3
 その後これから東京や世界へ出るには抽象画しかないと再確信し描き始めたのが、今回展示するインドのバラモン教からヒントを受けた婆羅門シリーズ作品です。
写真左:婆羅門シリーズ No.3(100号)1962
 この婆羅門シリーズ作品は、その頃ニューヨークからやって来た美術評論家の目に留まり、脇田和や糸園和三郎といった高名な画家たちとともに、日本を代表する芸術家14人に最年少で選ばれることになりました。ニューヨークのオズグット画廊で開かれたこの「14 JAPANESE ARTISTS」展は当時の美術界の大きなニュースとなり、新聞や雑誌の取材などを受け、ますます絵に対する意欲が燃え上がったことを覚えています。

アトリエにて24歳
写真右:アトリエにて婆羅門シリーズ制作中の24歳の私、雑誌に載った写真より
 ニューヨーク展選抜のニュースが新聞や雑誌に載って周囲に伝わると、途端に多くの女性にモテモテになり、死ぬ恐怖なんてどこかへ行ってしまいました。これも死を逃れる一つの方法だとは思いましたが。


 またこの展覧会の前後に、内外のたくさんの画家や評論家と知りあいになりましたが、中でも日本を代表する美術評論家の針生一郎氏との出会いは、またまた私の脳天を打ち砕きました。氏から「装飾画を描いている時代は終わった。人々の心を描かなくてはだめだ」と言われ、自分の内面を描く餓鬼草子シリーズに移りました。それまで春陽展等で受賞したり、銀座で個展を開催したりして自分なりの絵の道を築いてきましたが、それらの過去と全て決別しようと決心しました。それぐらい針生氏の言葉には説得力があったわけです。

餓鬼草子シリーズ太郎と花子
 私は小学5年頃から常に死の考えに追い込まれていて、死を忘れることが人生の目的でした。それにはスマートでカッコイイ作品制作より、自分の死を見つめる作品を作った方が有効と思ったことも現代餓鬼草子シリーズを描きはじめた理由です。
写真左:餓鬼草子シリーズ太郎と花子 No.4 (100号) 1968
現在描いている私の妖怪画の原点はここにあったと思います。


 私は今でもアフリカやアマゾン、パプアニューギニア等危険な土地に一人旅をしますが、これも狙いの一つは死を忘れられるからです。旅行中のすごい緊張の中、ヤバイ、殺されるかもしれないという恐怖が、自分の内なる死の恐怖をどこかへ追いやってしまうのです。危険な旅は、死なないための緊張した状態に自分を追い詰めることができる一つの手段なのです。

アトリエにて27歳
写真右:アトリエで餓鬼草子を制作中の私、27歳
 私が現代餓鬼草子シリーズを描いていた1970年に美術学生達が‘ゴミ事件’を起し、進歩派の画家仲間が気勢をあげ、応援するという出来事が起こりました。この地で前衛(進歩的美術家)と保守(美術館側=各公募団体の親分[県美術館の運営は学芸員がいなかった当時、彼等が仕切っていた])の戦いが始まったのです。だが裁判になると前衛と言って鼻息の荒かった連中は皆、名前が出るのを怖がってほとんどが逃げ出してしまいました。お上に逆らうと人生を棒に振ることになるし、人それぞれの事情や家庭があったりするわけです。残ったのは私とロック歌舞伎の岩田信市と中日新聞社の石井守だけでしたが、二人は裁判の証言には立たず私だけとなりました。しかし東京から美術評論家の針生一郎氏がわざわざ応援に駆けつけ、証言に立ってくれました。確かに私自身もこれをやったらこの先名古屋でほされるという恐怖は多いにありましたが、私は一度頼まれたら、人を裏切れない性格なので最後まで付き合ってしまったわけです。これも私の内なる死の恐怖を和らげるためだったかもしれません。まあ現代になってみると東京や関西の美術関係者から皆「あんたは正しかった。よく頑張ったよ。ヒーローだ」と言われ、あの事件も人生の中で無駄ではなかったのかもと考えています。

餓鬼草子シリーズ豚
 また今、妖怪にこだわっているのも私の内なる死の思考の延長線上に妖怪がいると思っているからでもあります。
写真左:餓鬼草子シリーズ豚(77×56cm)1968
 この私の内なる死を描いた現代餓鬼草子作品は当時から評価が高く、どこのコンクールに出しても落ちることがなく最後には講談社のピカソやマチスが載っている現代世界美術全集にも大きく取り上げられました。今回この作品は画廊の1階に、婆羅門シリーズは2階に展示してあります。見てください。


 ニューヨークの妖怪本出版に向けて走り出している私がこの回顧展を開くに及んだのは、我が家へみえた名古屋画廊の中山社長の一声に寄るものです。20代の僕の作品を評価して頂けるのはうれしいのですが、もう半世紀前のことで作品もどこに行っているか分からないし、今更という感じがすると私は思っていました。ところが社長は「行き詰まっている今の美術界は60年代のあの熱気にあふれた時代を望んでいるのです。60年代はあなたです。今手元にない作品はどこに行っているか相手の住所や名前をうかがえば画廊の費用で買い戻しに行かせていただきます」とまで言っていただき、そこまでおっしゃっていただけるのなら、私も頑張ろうと思い、お引き受けした次第です。

 けれど半世紀前の作品を集めるのは大変でした。全てがしっかり保存してあるとは限らず、相当破損していたりしましたが、いただいてきてすべて修正をさせていただきました。130号大の作品を購入された方は転居先が分からず作品に到達できませんでした。


山田彊一展 
―若き日の挑戦と情熱の息吹―

2014. 8.16(火)~8.30(土) 10:00am~6:30pm 日、祝日旧廊 
※最終日は4時まで
名古屋画廊
🏣460-0008 名古屋市中区栄1-12-10
℡052-211-1982 Fax 052-211-1923
伏見、御園座50M南、北東角

個展パンフ表
写真左:パンフ表の個展紹介文より





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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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