妖怪屋敷第43弾 尾張名古屋の幽霊(妖怪)スポット

妖怪屋敷第43弾
尾張名古屋の幽霊(妖怪)スポット

 昔はあちこちで幽霊が出たと言われるが、尾張名古屋の幽霊出現スポットはどこだったのだろう。昔の名古屋だから、今の名古屋よりずっと範囲は狭くなる。
 ところで「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うよく知られた句がある。これは疑心暗鬼になると枯れた花まで幽霊に見えるということを読んだものだ。この句、芭蕉を始め、多くの人に引用されているが、実は元禄時代に、俳人や画家として名古屋で活躍した尾張藩士、横井也有の句である。彼の句は「化け物の正体見たり枯れ尾花」である。上記の句は、これからの変形バージョンだ。どうも化け物では世間受けせず、幽霊としたようだ。これで言えることは「幽霊」も「化け物」も同じ次元のもので、狭い島国の日本は人間関係のいざこざが多いから、「化け物」より、人に近いイメージを持つ「幽霊」と差し替えた方が人々にはピンと来やすかったのであろう。

横井也有の羅塚
 この横井也有は俳文の大成者とも言われ、たくさんの弟子に慕われたらしい。その一人が彼の爪や頭髪を埋めた羅塚を中区橘にある長栄寺に立てているのもその証と言える。
写真右:長栄寺横井也有の羅塚
 その昔、この寺の周辺は森に囲まれたところで狸が住み、草履を隠すなどのいたずらをしていた。また近くにある墓地からは人玉もよく出ていたと言う。この寺のすぐ東には坂があり、この坂のことを幽霊坂と呼んでいたとか。中区といえども、中心からちょっと離れるとまだ当時はさびしいところだった様で、このあたりは幽霊や妖怪話が多かった。そのことから推察するに横井也有は上記の句をこのあたりで作ったのかもしれない。也有は隠居後、現在の中区前津のあたりに庵を作って住んでいたので、距離的にも十分近い。というわけでここは幽霊スポットと言えるだろう。

安用寺 手たたき稲荷
 前に述べた東区の尼ケ坂の幽霊坂も幽霊スポットだが、こちらの中区にある幽霊坂は繁華街の近くにあり、一般人にはここの方がよく知られていた。尼ケ坂は尾張徳川藩が故意に作ったような感じだが、ここは庶民の間で自然発生的に生まれた幽霊坂のようだ。この寺の100メートル程の西北には「手たたき稲荷」があって、参拝人が夜中に手をたたくと狐が現れ、狐は神の使いだから頼み事を聞いてくれるとあってたくさんの人が夜、参拝に来たと言う。ここの狐は人を化かすなどの悪さをしなかったとみえる。
写真左:安用寺の「手たたき稲荷」
 こからまた200メートル程北で妻の母が生まれ育っているが、ここへ義母はほとんど来なかったという。直ぐ近くの富士浅間神社に祭られる稲荷を毎日のように拝んでいたから、他の所へは行けなかった。名古屋人は義理固いのだ。

乗円寺と地蔵
 この幽霊坂の下にある新堀川を越えてすぐのところに乗円寺がある。この寺は新堀川の犠牲者を供養する寺であった。というのは新堀川を造るのは、かなり大変な工事だったため、土砂の崩れなどで死亡するものも多く、数百人の犠牲者が出たというのだ。そのため境内には供養のためのお地蔵様も安置されている。
写真右:新堀川の供養寺「乗円寺と地蔵」

 そんなこともあり、この川で亡くなった人を弔う意味もあって精進川とはじめは呼ばれていたがが、あまりに縁起が悪いと言うので名前を新堀川に変更したのだと言う。だが、人はこれをもじって「死に堀川」と呼んでいた。

新堀川
 この川は名古屋でも一番のどぶ川でここに飛び込んで自殺すると、泥にうずまり遺体すら浮いてこないこともあったと言う。
写真左:名古屋で一番汚い新堀川(死に堀川)
 無念の死を遂げた人たちの怨念から、ここにもたくさんの幽霊が出たらしい。これらの供養もあって乗円寺は建てたらしい。当時は亡くなった人たちの遺族の供養で大変だったらしいが、今は忘れ去られたような存在になって寺の名前すら判明しにくい。

 さらなる幽霊スポットは名古屋城築城の折に造った堀川だ。堀造りと幽霊がらみで新堀川と同じようなことがあった。こちらは家康が最初に作らせた堀川だが、この折もたくさんの人夫が崩れる土砂の下敷きになったりして亡くなっている。ここは尼ケ坂の幽霊坂からは外れていて、少し前の新聞発表で核断層が通っていると指摘されたところだ。
 江戸から明治にかけて、お盆の間に満月の夜があると人々はこのあたりを避けて通行したという。それというのもあの世から戻った人夫の幽霊がここで酒盛りを始め、そのざわめきが聞こえるからだという。浚渫工事がうまくいって難関を突破すると、藩からお祝い酒がふるまわれ、ここで人夫たちが酒盛りをしていた。それが満月になると再現されると言うのだ。あの世へ行っても楽しかったことは懐かしいのだろう。酒盛りをしたらしい場所に差し掛かると姿は見えないが、酒で盛りあがった人夫達のだみ声が聞こえてくると言う。現在の景雲橋あたりではないかと思うが、一度盆の期間で満月の夜があったら、一人で歩いてみたい。できることなら仲間に加わって一緒に酒を飲み、話をしてみたいものだ。

桶狭間お化け地蔵
 さらに現在の名古屋市緑区に隣接する桶狭間古戦場にも幽霊話がある。織田信長と今川義元との決戦場だが、そこにも馬に乗り、青白い光の束に取り巻かれた武将(今川義元)の幽霊が出ると長年言われていた。今川義元の怨念を不憫に思い、鎮魂のために1853年、地元民が地蔵を建てたらその幽霊は出なくなったという。これをお化け地蔵というそうだ。
写真右:桶狭間に建つお化け地蔵

 また名古屋ではないが、幽霊は江戸の尾張藩屋敷でもよく出たと言われている。吉宗と尾張藩主継友が次期将軍問題で争っていた時、尾張藩の4代目吉道が変死し、5代の五郎太も早く亡くなるなど謎だらけの死が続いたと言う。そのこともあり江戸の町民は雨の日になると尾張藩邸に幽霊が出ると言って騒いだようだ。

 尾張名古屋は保守的な街だから独創的な発想から生み出される妖怪より、実際にあった出来事から生まれた幽霊話のほうが多く語り継がれているようだ。名古屋の町おこしで幽霊スポット巡りツアーを企画しても面白い。妖怪バスターの教え子達に提案してみよう。

 僕の妖怪屋敷シリーズは、今回でひとまず打ち切ることにする。また何か面白いことがあれば、続編で書くかもしれないが、とりあえず最終回としたい。今まで拙い文を読んでくださった方には大いに感謝するところである。

 ところで前述の横井也有の句に僕の好きなものがある。「しからるる子の手に光る蛍かな」。泣きべそをかきながらその手の中に光る蛍がいる。いいね。この輝く蛍を人玉の間に飛ばせてみたくなった。きれいでかわいい蛍が一番妖怪に近い存在だと常々僕は思っていたから。


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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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