雪舟を追ってニンポーへ

雪舟を追ってニンポーへ(3)
<雪舟に関する“何故”を探る>
・何故、デッサン下手の雪舟が大芸術家として歴史に残ったか?
・何故、中国の天童寺で『四明天童第一座』という、これまで日本の高僧さえもらえなかった賞(称号)を、どうにか勘合船に便乗して渡明しただけの雪舟が貰えたか?


秋冬山水図慧可断臂図
 僕が雪舟の作品と出会い不思議に思ったのは、中学の美術の本で国宝『秋冬山水図』を見てからだ。どうしてこの水墨画が国宝なのか?長谷川等伯や俵屋宗達ならすんなり納得できたのに、不思議でならなかった。それに加え雪舟の代表作『慧可断臂図』を見てまたまた混乱した。描かれた人物の二人ともが横から見た姿なのに、エジプトのピラミッド絵のように正面から見た眼に描かれていたことだ。
写真左:雪舟作セザンヌ調の『秋冬山水図』右:ピラミッド画調の眼が描かれた『慧可断臂図』(左側に自分で記入した「四明天童第一座』雪舟の文字あり」
 僕のアートの原点はこの疑問から始まったのかもしれない。大学生になっても疑問は解けず、卒論も『源氏物語絵巻 (僕の先祖が三,四百年前から住んでいた我が家から数十m南に徳川美術館がありその代表所蔵品が源氏物語絵巻だったから)と狩野派』にした。本来は『雪舟と狩野派』でいきたかった。だがいくら専門家たちの研究文を読んでも雪舟に対する僕の疑問は解決されず、卒論として書くには無理があった。どうも彼ら自身分かっていないようだった。
 何故多くの美術関係者達が評価できない作品が国宝にまでなったのか。その後、僕はデッサン下手のセザンヌやピカソにも同様な疑問を覚え、彼等についても調べた。その結果写真機の発明以降、デッサン力が重要視される必要性が減少し、印象派の出現を経て各作家の個性が重要視される中で、彼等が世界的に評価されたことを理解するに至った。
 雪舟もこの見方で見れば納得できるかなと思った。だが雪舟はセザンヌやピカソの時代より500年も前の日本での話。個性とか芸術とかなんて評価の対象にならない時代であり国情でもあった。あの現代美術的と言われるデザインの織部よりさらに100年くらい前である。そのあたりを踏まえ、幾度も本にしようとするが研究者の罵倒が怖く、取りやめていた。
 ところがその後、山下裕二という若い研究者が現れ、僕の言えないことを堂々と発表するようになった。僕は喜ぶ半面、先にやられたという落胆も感じた。それでもまだ本にしたいという思いが断ち切れなかったのは、僕が雪舟と同じアーティストであるということだ。同じ画家という立場からなら雪舟の気持ちに、ある程度同化できるのでは?これが山下氏にはできないことだと僕は思った。彼の発表でひとつ納得がいかないことは、雪舟が何故天童寺で最高位の賞を貰えたかについてほとんど触れていないことだ。僕は以前北京の芸大にあたる中央美術学院で展覧会をして、自分の出品作を置いてきたら、金ぴか文字に布製の分厚いお礼状(賞状)がもらえた。だから雪舟も新築された北京の礼部院に絵を描いたというから、これでもらったかなと安易に考えていた。だが改めて考えてみると賞を出したのは天童寺だからこれはおかしい。明国の皇帝に乞われて描いたと伝えられているから賞は当然明国皇帝を表す語句がなければならない。ではまた描いた壁画がものすごい出来栄えであったのかとも思うが、雪舟の技量から言ってありえないし、明国のどの記録にも彼の作品が凄かったとは記されていない。それにあの臨済宗の開祖であり、日本にお茶を広めた栄西や道元禅師ですら4年程も天童寺で修業しながらなんの賞ももらえていない。雪舟は1年程中国に滞在するが北京へも行っているから、たかだか半年の天童寺滞在であっただろう。それで最高の賞(礼状)がもらえた。これはどうしてだろうか。これが今回の旅で僕が一番調べたかったことだ。


天童寺境内
  階段の多い天童寺を上がったり下がったりしながら、僕が雪舟だったならどうやって賞をもらおうとするかを考えた。どんなつまらないことでも思考上に載せてみた。
まず誰でも考えるのは、朝から晩まで写経をし、また箒を持って掃除をした。こんなことは帰依したい信者がいくらでもやっている。それでもらえるならこの賞はいくらでも出ていたはず。
 またトイレものぞいてみた。ここはそれぞれ仕切りがなく、長い板の上に座って隣の人とお尻を並べ大便をする形式だ。変な話だがここで用便に見せかけてゲイの行為をするのはいとも簡単だ。この時代女色より男色の方が崇高と言われた時代だ。でもこれは雪舟が若い紅顔の美青年なら考慮する必要もあるが、50歳近い僧では、まずそれはない。こんなことまで蔵経楼の石段に座り込んで僕は考えていた。
 また寺前にある店で、安い精進料理を一人食べながら、このような食べ物を食べていたとすると精力は付かないから性のことを考慮する必要はないのでは…とか、いや、寺の周辺には女郎屋も多かったというから、これがキーポイントではとか、いやいや日本から高価な品を賄賂として持参していたとか。でもこれは貧乏僧の雪舟にとって不可能だとか、僕の頭の中は思考の堂々巡りをしていた。

写真上:天童寺の境内(階段の多さや大きさが分かってもらえるかな)

天童寺鶏頭とトイレ
 寺の縁に座った目の前の石畳の間から鶏頭の花が強引に顔を出し、赤い毒々しい色を振りまいていたから思考も、性中心に行ってしまうのかとも反省する。右の建物の軒下を小さなヘビがうろうろしていた。追っていくとドアの隙間から室内へ入って行った。そこには経典本らしきとじ込み本が無造作に沢山積まれていた。ふとこれだな、これしか考えられないという思いに行きついた。しかしここでは記さないことにした。周囲に知らせてしまうと雪舟について書く気が僕自身無くなってしまいそうだからだ。
写真上:天童寺の敷き石の横から咲いた鶏頭の花(石畳の間から強引に生えている)
写真下:天童寺のすぐ近くにある阿育王寺(天童寺より古い)の厠。右側におかれた木片は大便を拭き取るヘラ


 「ところで山彊先生、雪舟が四明天童第一座という凄い賞をもらったことはわかりましたが、どうしてこのことによって雪舟が我が国最高の画聖と呼ばれるようになったのですか。一般人にはわかりませんが」

 雪舟が賞をもらって帰った日本は、当時応仁の乱の真最中で、それどころではなく彼は誰からも相手にされなかった。勘合船に便乗して高々1年間くらい明に行って賞状をもらってきたからといってどうってことはない。また彼等にとって相国寺以外の価値観があるのは困ることだった。天童寺がいくら相国寺の親寺といえども、いや親寺だからますます困るのだ。
 雪舟はそのため都落ちのような感じで山口や博多方面に戻ることになる。こちらに落ち着いた後は食べるのには困らなくなった。『四明天童第一座』の画家と言えば、人々はどんな作品でも有難がって買ってくれる。きっと購入した人たちは本当にあの天童寺で賞をもらった僧の作品だよと証明するために、それを作品上に記すことを要求したのではないか。だから雪舟の作品には「四明天童第一座・雪舟」と宣伝がましく書き込まれるようになった。日本においては、絵画作品に作者の名前を書くという習慣はこれまでまずなかったから、雪舟がはじめたと言われている。
 だが一般人に絵を描いたり売ったりするだけではいずれ行きづまる。(大内氏も少し庇護したとは伝えられるが)それが証拠に晩年彼の存在は薄くなり、何処で亡くなったのかも定かでない。
 これで雪舟は歴史から消えるはずであった。ところが江戸中期、狩野永納が狩野派の権威を高めるため、狩野派の歴史の編纂を始めた。そこで先祖とあがめたのが『四明天童第一座』の賞をもらった雪舟だ。どんな画僧かほとんどわからないが、賞の名前からして凄いと思ったのだろう。そして彼を画聖として高めるべく数々の逸話を創った。涙で描いたネズミが、生き返ったようなウソ話を書き込んだ。こういった宣伝が効を奏し雪舟は江戸の偉人となり人々は長谷川等伯の作品を購入しても、等伯の字を消して雪舟と描き込むほどになっていった。雪舟筆とあれば高く売れるからだ。雪舟の名前の下から他の画家の名前が出てきたという事件が10年ほど前にも報じられていた。雪舟筆と銘打った絵の99%以上が彼の絵ではないと言われている。

上セザンヌ、下ピカソ
 このことも明治になり歴史の検証が入れば、雪舟は消えただろう。ところが明治の初め、ヨーロッパではもう写真機が発明されていて、印象派が起こり、デッサン下手のセザンヌたちが創造性のある個性派として認められてくるようになっていた。その観点から見るとまさしく雪舟もセザンヌに匹敵するデッサン下手の個性派なのだ。明治になり来日したフェノロサはセザンヌの日本版と雪舟を思ったのではないか。フェノロサに影響された岡倉天心達もそのため雪舟を褒めはじめた。だが雪舟を再生させた一番の功労者はフェノロサではなく狩野永納だろう。ジャンヌ・ダルクをよみがえらせたのがナポレオンであるように。

写真上:セザンヌ作『会話』(33歳・写実しか入選しないサロンをめがけ制作していたころの普通の作品)
写真下:ピカソ作『ソレルの家族』(22歳・パトロンの仕立屋。お金を得るべく写真のように必死に描いた家族の肖像画)
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プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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