広島の砂に原爆ドームを刷る 山田彊一パフォーマンスアート作品より

最近、僕が気にいっているパフォーマンスアート作品の紹介
 以前このブログにも書いたが、30代のころ僕は様々なパーフォーマンスアートを行っていた。40代になると美術館展示可能な作品にもどっていったが、それでも時々はパフォーマンスアートを行ってきた。その中から最近行ったものを紹介したい。

<広島の砂に原爆ドームを刷る>

 2007年8月6日 午前8時15分(広島に原爆が投下された時間)アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館(広島に原爆を投下した戦闘機エノラゲイが展示されている)の前庭でパフォーマンスを実施。

原爆ドーム前土の採取に取り掛かる
写真右:アメリカに行く前、広島に行って原爆ドーム前の土の採集に取りかかる僕 手にはスコップ

 この行為は、日本より持ち込んだ広島の原爆ドーム前の土を、スミソニアン航空宇宙博物館の前庭に撒き、キャンパスに見立てて、その上に原爆ドームをシルクスクリーンで印刷するというもの。
原爆ドームを印刷した土は、粉砕してスミソニアン博物館の庭にばらまいてきた。
広島の原爆に汚染された土を、それを生み出した戦闘機のおかれている博物館の前庭に返却したことになる。

採取された広島の土
写真右:採取され袋に入れられた広島の土

 9.11の同時多発テロ以降、この博物館でも監視が非常に厳しくなり、監視員に見つからないように実施するのはなかなか大変だった。
なお、この時の実際の写真などはまたのブログで紹介したい。







同様のパフォーマンスを
2008年にも愛知県美術館にて実施。


写真下:愛知県美術館で実施した作品広島の土に原爆ドームを刷る
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ケニアに赤い布とボルト 山田彊一 1990年代の作品より

ケニアに赤い布とボルト
'97にパフォーマンス作品で受賞

ケニアに赤い布とボルト
写真右:「大阪トリエンナーレ展」 '97 特別賞受賞 <ケニアに赤い布とボルト> 

 1996 年、ケニアの画家たちに無償で配るべく、日本で寄進されたコンテナいっぱいの絵の具を持って単身首都のナイロビに飛ぶ。ついでに持参した僕のボルトが刷られた10メートルの赤布でパァフオーマンスを行う。8人の黒人が茅葺き小屋の前に集合する。

①「赤布をひろげなさい」の僕の号令で、皆がひろげる。強烈な色とボルトの映像に「ウオー!」の歓声が 上がる。
②「穴をあけて首をつつ込みなさい」の号令で、首をつつ込むと8個の黒い頭をもった大蛇が出現する。
 大阪トリエンナーレ展会場に展示した作品はこれをマネキンで表現したもの。
③「それぞれ切り裂いてドレスにしなさい」の号令で、大きな大蛇が8匹に分裂。黒人たちは大喜びで飛び 回る。
最後には全員がそれを羽織って、それぞれの部落に帰って行った。
 僕はアートに関心を持ち始めたこの国の若者たちに「芸術とは何だ」ということを行動を通して教えたかった。これも一つの大きなアート行為だと思う。だからこそ世界中から美術作家が応募した国際展の中で賞をもらえたのではと感じている。

Push Art(イス) 山田彊一 1980年代の作品より

Push Art
山田彊一 1980年代の作品

和歌山ビエンナーレ大賞作品
 前回のブログで紹介したボルト作品は多くの美術評論家から絶賛され、その後僕はこのコンセプト(Push Art)で数多くの作品を作り、賞をとった。
エンバ美術賞展('82)、宇部絵画トリエンナーレ展('83)、大阪現代版画コンクール展('84)などである。中でも僕が特にうれしかったのが、和歌山版画ビエンナーレ展('85)での大賞受賞である。
写真右:第1回和歌山版画ビエンナーレ大賞受賞作品 Push ボルト<B>
 これ以前日本では国際的なコンクールといえば、東京国際版画展があった。あの池田満寿夫はここで賞をとり世界に進出している。この東京国際版画展が第10回をもって終了した。当時の日本には美術部門では国際的なコンクールはこれだけだったので、それを引き継ごうと和歌山県が県を挙げて立ち上げたのがこの和歌山版画ビエンナーレである。国際的なコンクールにふさわしく審査員にはアの現代美術家のサムフランシスも加わっていた。海外からの出品者も含め1178点の作品の中から僕の作品が第一回(1985年)の大賞に選ばれたのだ。
 作品タイトルは、Push ボルト<B>。前回のボルト<A>とともにボルトは僕のモチーフになる。

IBM絵画コンクール大賞作品
 翌1986年にはIBM絵画コンクールで大賞(写真右:Push Art イス)、さらに1989年にはエンバ美術賞展で優秀賞=準大賞(写真下:Push Art イス)を取った。IBMは大阪、エンバは神戸なので、僕はよくよく関西方面に縁があるなと思ったものだ。
 
 和歌山ビエンナーレの成功でこの頃から美術コンクールは国際化の傾向が目立ち、大阪トリエンナーレ展にも海外から多くの美術作家が出品するようになった。80年代はバブル景気に沸いた時期で賞金額もどんどん増えていった。このことも海外の作家たちを引き付けた要因だろう。1997年、僕はこの大阪トリエンナーレ展で特別賞を受賞した。これはケニアに出かけて行ったパフォーマンスアートである。


Push Art(イス)
写真上「エンバ美術賞展」'89 準大賞受賞 <Push Art(イス)> 120×161cm

ボルト(A) 山田彊一 40才代初期(1980年代)の作品より

ボルト(A) 「中日展」 '81 大賞受賞
山田彊一 40代初期(1980年代)の作品


ボルト(A)
 写真右:ボルト(A) 中にウレタンを入れボルトの根元を引っ張った作品。平面なのに立体に感じられるような狙いで制作。

 30歳の折、若い後輩の絵描きが愛知県美術館にゴミを出し、裁判になった事件に絡んでの10年間が過ぎた。名古屋において反体制的な活動をすることは、自分の首を絞めているようなものだ。美術界からの風当たりは強く、体制に迎合するマスコミからも無視をされた。前述した30代の頃に挑戦していたコンセプチュアルアートとしてのパフォーマンスアートも、保守的な人々には理解を超えていたようで、冷ややかに受け止められ、「絵が描けないからバカなことをやっている」と揶揄され続けた。
 僕が様々な場所や形態でアートを発表しても、またどれだけ現代的な動きをしても、名古屋から発信していては東京や世界のマスコミは何の注目もしない。色々考えた結果、僕の目指す新しい美術をまず名古屋で知ってもらう方法を取ろうと考えた。
 名古屋の画家たちに認めさせるには世界や日本の大きなコンクールで賞をもらうことだが、その前に、地元で一番最高の賞をとるほうが認知度は上がる。東京(全国)で一番よりも名古屋で一番の方が、名が知れ渡るのだ。名古屋ではその頃、中日新聞が主催する美術展、中日展が有名で僕はまずこのコンクールで賞を取ろうと考えた。そこで描いたのがこの作品だ。同じシリーズ作品が中日展に出す前、大阪や東京で賞をもらっていた。
 当時の中日展は二科や日展、春陽会の親分が審査員となっていた。ところが僕の出す年(1981)から地元の親分を排除して、東京や大阪から有名評論家招いて審査にあたらせるようになった。これも僕にはラッキーであった。この中日展で僕の作品は大賞をとる。中日新聞の1面トップに載った僕の受賞作品と記事は、周囲の人々の態度を大いに変えた。中日新聞が美術面での刷新を図ったことにも僕は大いに評価している。
 この後僕はこの技法で立て続けに賞をとることになる。

餓鬼草子 太郎と花子シリーズ 山田彊一 20代後半(1960年代)の作品より

太郎と花子シリーズ   山田彊一 20代後半(1960年代)の作品

講談社現代の美術全集
 さて先回のブログでニューヨーク14人展の「婆羅門シリーズ」を紹介したが、そこで知り合った小田譲氏、小本章氏、糸園和三郎氏たちと付き合ううち、現代美術の動向についていろいろ気付かされた。例えば、公募展に入っているのはもはや時代遅れでること、絵画において色や構図だけににとらわれるのも同様に、過去の遺物であることなどだ。
 東京や世界の美術動向に大いに刺激を受けた僕は公募展の春陽会を辞め、自分の心の裏側へ入ることに邁進する。そしてできたのがこの「餓鬼草子 太郎と花子シリーズ」だ。和紙と墨を使った作品で、60年代、毎日新聞が主催していた現代美術展にこのシリーズで3度も入選したことで、自分の進むべき方向を確認した。

現代の美術第3巻
 また講談社が戦後初めて出した「世界の現代美術 art now 」全集(写真右上)に僕の太郎と花子シリーズが収録され、またまた有頂天になったことを思い出す。
 この全集の第3巻(写真右)に掲載された僕の作品の裏側のページには河原温氏の作品が掲載され、他の巻にはピカソやマチスも取り上げられていた。全世界で合わせて百数十人の作家が掲載されている。勿論名古屋からはただ一人で、僕が名古屋の保守的な美術界を変えていこうという気概に燃えたものだった。

MAN AND MAN 4 現代の美術第3巻より
写真上:現代の美術 第3巻に載った僕の餓鬼草子 太郎と花子シリーズの作品 MAN AND MAN 4

現代の美術第3巻より
写真上:その次のページにある河原温氏の作品と作品解説

 この後僕は、当時愛知県美術館に若い作家たちがゴミを出したゴミ事件を応援し、いわゆるゴミ裁判で針生一郎氏などとともに原告側の証人になったり、反体制的な美術活動を行っていく。だがこのことがこの地のほとんどすべての画家たちを敵に回すことになり、村八分等で僕は地獄を見ることになる。この太郎と花子シリーズ作品は30歳で描くのを止め、その後は政治運動に走ったり、またコンセプチュアルアートとしてガンジス川の水を持ってきたり、恐山の石の積み上げ、ヒマラヤの中腹にあるといわれる伝説の須弥山を護衛する青鬼にポルノ写真を印刷したりなど、世界を回ってパフォーマンスアートを展開した。そういったこともこれから語っていきたい。

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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