『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑯⑰

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑯⑰

今まで妖怪街道にまつわる妖怪を紹介してきたが、ここからは妖怪街道の周辺の妖怪を載せていきたい。

⑯太郎メデューサ
出現場所:妖怪銀座北西200m、久国寺釣鐘の音が届く範囲


 尼ケ坂(妖怪銀座)から200m程北西へ行くと名古屋城の鬼門寺として知られる久国寺がある。この寺は岡崎の松平家の菩提寺から菩薩像を一つ譲り受け創建したといわれている。この岡崎の菩提寺で家康は手習いをしていたとのこと。そんな由来もあり久国寺は名古屋城付近の寺としては一番大きく、雲水の数も多かったという。

 この寺では僕にとって忘れられない出来事があった。当時住んでいた酒問屋の家はこの寺からすぐ近くで、よく女中さんに連れられこの寺に散歩に来ていた。1944年12月7日午後1時36分に起こったマグニチュード8.0の「昭和東南海地震」が起きた折もちょうど昼食後の散歩最中だった。突然地面が揺れ灯篭が倒れ、僕は立っていられなくなった。6歳だった僕だがこの時のことは鮮明に覚えている。情景も絵に描けるぐらいだ。この地震ではものすごい数の死者が出たらしいが戦時中で戦意を喪失させないためにニュースにもならなかった。街々が地震被害から復興もしていない中、1年後には米軍のB29の爆撃ですべてが焼失してしまう。この折我が家も焼失した。


久国寺の釣鐘
 このこと以外にここはなぜか僕と因縁がある。僕が25歳で日本人画家14人に選ばれてニューヨーク展が決まった時、ここの住職があの岡本太郎に釣鐘のデザインのお願いをしているのだ。太郎は勿論当時から有名で僕は憧れていた。住職は何故岡本太郎に釣鐘のデザイン依頼をし、太郎は何故その依頼を受けたのか。釣鐘には数十本の角が生え、周りには動物や魚、妖怪など森羅万象の事物が描かれている。
写真右:岡本太郎作、久国寺の釣鐘(この釣鐘、今は10億円の値が付いたという。妖怪もお金が関わる様になったのか)

 太郎は何故ここの釣鐘に角を生やす絵を描いたのか。すべて不思議で僕の妖怪話に繋がって驚く。太郎と妖怪、どこかで繋がっているかもしれない。否、太郎が妖怪その者だったりして。

 角が生えた妖怪鐘楼は叩くと他に類似しない余韻のある音がする。人には分からない妖怪音律なのだろうか。万博の太陽の塔もここの釣鐘も常人離れしたものがある。この釣鐘の角は手であると太郎は言う。そこで僕の妖怪画は太郎の大きな手を中心にまとめてみた。保守的な名古屋ではまず起こりえない妖怪鐘楼の設置だ。やはりここには妖怪の見えざる力が働いている。


⑯太郎メデューサ

太郎メデューサ



⑰壬申の妖怪樹
出現場所:東区主税町


撞木町椋の木
 金城学院高校南100m程のところ、日本料理店太閤のすぐ隣に直径3メートル程の大きな樹木(椋の木)がある。
写真右:太閤日本料理店駐車場内の椋の木
 太閤はこの大木を残したまま駐車場として使っていたが地主がここを売るからどいてくれと言われ困っていると、僕の知り合いでもあった太閤の社長から聞いたことがある。だが大木を処理できず買い手がつかなかった。この木は樹齢千年をはるかに越えて生き残っている。なんでも672年、壬申の乱の頃に生えてきた木で、殺された大友軍兵士の1万人を越える遺体が埋められたその上に生えてきた木だという。
 
 同じような木が周辺にあと2本ある。金城学院前の椋の木と片端の交差点の真中にある椋の木だ。金城学院前の木は爆撃が激しくなる前の5歳の頃、このあたりのお祭りで連れてこられて見たことがある。車道にはみだしている大きな木があり女中さんは「この木は神様の木だから、邪魔だけど切ってはいけない。切ろうとした人が何人も亡くなっている。」と話してくれた。幼い頃の会話なんてほとんど覚えていないのに、なぜこの折の話は鮮明に覚えているのか不思議だ。

 片端の交差点の木も道を拡げようとした戦後や都市高速を通す折、切ろうとしたらしいが決めた役人か誰かが亡くなったという噂が出て、結局怖くて誰も切れず車道内に残されたと言う。さらにこのあたりは第二次大戦で焼き尽くされているのにこれらの樹木はなぜ生き残っているのだろうか。

 水木しげるによると「火葬されないで埋められた遺体は、その霊魂が人に災いを及ぼす」と言う。それを参考に僕の作品では妖怪樹に妖怪獣の顔を描き込んでみた。またこの老木には白蛇が住み付き亡骸を守っていると言われているので白蛇を描き込み、傍らに可愛い子ヘビも描いてみた。実はこれらの交通の邪魔をしている老木、僕は都市の中の潤いスポットとして大好きなのだ。この大木のそばを通り過ぎる時は癒される気がし、殺伐とした街に何とも言えない暖かさを感じる。この子ヘビのようではあるまいか。


⑰壬申の妖怪樹

壬申の妖怪樹
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『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑬⑭⑮

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑬⑭⑮

先回に引き続き妖怪街道に跋扈する妖怪たちを3つ紹介させていただくが、妖怪街道の妖怪に関してはこの3つで最後である。

⑬妖怪「踊り念仏」
出現場所:長母寺から三河方面


 妖怪街道が矢田川を越える手前に長母寺がある。江戸時代には矢田川を越えるともう民家もまれで街道とは言えなかっただろう。この寺は矢田川堤防のちょっとした高台にあり、西には名古屋城の金のシャチがくっきりと見えたはずだ。この寺は1179年、山田重忠が母のために創建したと伝えられる。その後鎌倉時代後期に高僧の無住国師がやってきて、寺は大きく再建され三河方面にも信者を増やした。それは国師が念仏を歌うように唱え、踊りも加えるようにしたからだといわれている。これが三河地方にも浸透し、今の三河万歳のルーツになったとも言われる。一度秀吉の政策に引っかかり、たくさんの信者を失い荒廃したが、江戸時代に入って光友は落ち延び街道の要所でもあるこの寺の再建をしている。

 また無住国師は死後の世界をこの世に伝えた妖怪坊主としても知られる。この話は僕の小学校4年の時に聞かされたものだ。小学4年の折、この長母寺の境内で全校の写生会が行われた。写生会の開始前、住職は全生徒を集めこの寺のいわれを語ってくれた。僕は幼かったのにこの時の情景は今でもくっきりと思い出す。「あの世からの伝言」とでも言うのだろうか。考えてみると僕が小学校5年から死後の世界を考えるようになったのはここからだったかもしれない。
 
2種の葉が生えた木
 住職の話によれば、昔々この寺には無住国師という偉いお坊さんがいた。このお坊さんが亡くなる時、「自分は死後の世界へ行くのだが、もしそこがいい所なら一年後ここの境内の木の1本に、全然別の種類の木も一緒に生えてくるようにしてあげよう」と言って亡くなった。その結果1年後には、1つの幹に違う種類の葉を持った枝が生えてきた。これがその木ですと、目の前にある木を住職は指さした。あの世は素晴らしい所なのだと言うことになる。この木はなんと今でも本堂の前にあるから見るといい。
写真右上:住職の話した樹木、無住国師が亡くなって1年後に生えてきたといわれている。左は1本の木から生えた全く種類の異なった葉、右は2種類の葉が茂っているその木。

 僕が描いた「踊り念仏妖怪」は歌うように念仏を唱え、踊ったということから、大根片手に念仏を唱え、腰を振る庶民風のものにしてみた。こんなふうにしてここの念仏妖怪は信者の気持ちを掴み人々の中に入っていったのであろう。


⑬妖怪「踊り念仏」

妖怪踊念仏


⑭妖怪「守山崩れ馬」
出現場所:守山城跡周辺


 長母寺から矢田橋を通って矢田川を渡るとすぐ前にこんもりした森が見える。長母寺からは川向うにあり絶好の写生ポイントだ。小学校時代の長母寺での写生大会では、いい場所なのにほとんどここを描く者はいなかった。何か描かれることを拒否しているようだ。この地は尼ケ坂の妖怪銀座に次ぐ不気味なエリアだ。ここは城下町内の妖怪街道の終着点から川を越えたところだから箱根の関所のようなところか。ここで妖怪たちは自分たちにとっての不審者を入れないように厳しくチェックしていたのかもしれない。

 僕が近所の噂として幼いころから常に聞かされていたのは「この地域はいつもどぶろくの匂いが充満していて、役場の人も中に入れない。道が狭く曲がりくねっていて入ったら出てこられない。犬も1匹もいないから住民に食べられてしまうのではないか」等々と言うものだった。ここも僕が妖怪の本を書こうとする数年前まで、一度も訪れたことがなかった場所だ。大戦中、日本人を攻撃していた艦載機がこの上空で何故か故障し、米兵が落下傘で降りてきた。それを怒り狂ったこの地の人達が殴り殺したという話もある。

守山城跡
 こんなこともあり、改めてこの地を調べたらすごい過去が分かった。ここ守山(森山)には信長の叔父である信光の居城があった。三河を平定していた家康の祖父である松平清康は尾張も支配しようと守山城を奪い取った。だが夜明けに馬が暴れ出して嘶いたため、配下の武将に清康は殺されてしまった。殺した若い武将は、常々織田と通じていると疑いをかけられていた自分の父が清康に殺されかけたと勘違いして、主君清康を襲ってしまったのだ。後を継いだ清康の嫡男宏忠はまだ十代前半で、力を失った松平軍は撤退を余儀なくされた。このことを守山崩れと歴史では呼んでいる。
写真右:守山城跡石碑

 僕は強引に攻め込んできた清康に怒ったこの地の妖怪が一計を案じて馬に乗り移り、これを嘶かせたのだろうと思っている。というわけで「守山崩れ馬」は妖怪が乗り移った妖怪馬のイメージで描いてみた。現在守山城は守山城跡という石碑は立っているが、辺りは道が細くて車が曲がれない箇所もあり、そして何処までが民家かということも分からない不思議な場所だ。


⑭妖怪「守山崩れ馬」

守山崩れ馬


⑮妖怪「追い腹もみじ」
出現場所:定光寺界隈


 落ち延び街道の尾張藩内での終着点が尾張徳川家の菩提寺である「定光寺」だ。ここは寺と言えど山城に近い。しかも山が深く、隠れるのにも絶好な場所でもある。ここを菩提寺としたのは光友だ。菩提寺としても、落ち延び街道上の一地点としてもこんなにふさわしいところはない。ここまで逃げ込めばまず見つけられにくいであろう。

 紅葉が美しく妖艶ですらある。紅葉というとこのあたりでは香嵐渓が特に知られるが、僕はここ定光寺が好きだ。長い階段を上り切った時、眼前に広がる紅葉した葉と青空のコントラストが素晴らしい。でも妖怪を調べ出してから、僕にはもみじの赤色は青空にほとばしる血潮に感じられる。ここのもみじは血で赤くなったのだ。ここには血が流される何かがあると。紅葉の時期になると何回も来たのはそんな理由があったのかもしれない。

 ここに来る人達はもみじと山門や本堂を見て納得して帰る人がほとんどだ。この奥100m程の山中には義直をはじめ、歴代の藩主の墓があるのだがここに立ち寄る人は少ない。義直公の霊廟に向かってすぐ右側に9基の小さい墓がある。ほとんどの人がここを無視するが妖気はここが一番感じられる。

殉死者の墓
 この墓は義直が亡くなった折に、殉死した家来達の墓なのだ。ほとんどの家来が本当は死にたくなかったはずだ。僕はこれを尾張藩のケチと見栄の結果による追い腹(主君の後を追い殉死すること)と考える。お金は使いたくない。だが世間体は気にする。お金を使わず「さすが御三家筆頭!」と言わせるにはこれしかない。9人もの追い腹なんて他藩では考えられない。
写真右:定光寺殉死者9人の墓

 9人の中には弱冠30歳で尾張藩の武家の婿養子になって、直ぐに死ななければならない者もいた。すごく無念であっただろう。定光寺のもみじはそんな武士たちの血と怨念に染められた結果かもしれない。尾張地区の葬儀では、花輪をたくさん並べていかに死者が皆から尊敬、あるいは慕われていたかを誇示するような習慣があるが、江戸時代初期、殉死者の数を誇ったのとどこか似ているような気がする。


⑮妖怪「追い腹もみじ」

追い腹もみじ

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑪⑫

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑪⑫

 名古屋の妖怪銀座(尼ケ坂近辺)に跋扈する妖怪を⑦~⑩と紹介してきたが、今回は妖怪街道をさらに東に進んだ徳川園付近の妖怪を2つ紹介したい。

⑪光友カラス天狗
出現場所:片山八幡神社や山田宅付近


烏天狗のお面
 僕の大学1年の時、初めて寄った名古屋駅前の骨董屋に置かれていた30㎝程のカラス天狗のお面が目に留まった。何故かとても気になり、当時大学生になったばかりでお金も無かったのだが、最初の家庭教師の謝礼など有り金をはたいて買ってしまった。
写真右:我が家の応接間にあるカラス天狗のお面
 何故、高価なお面をあの時無理して購入したのかわからない。このお面、今でも我が家の客間に僕が旅先で買ってきた東南アジアやアフリカのお面、40面程と並んで飾られている。日本の物はこれただ一つだ。

 太平洋戦争で徳川園のあたりが燃える前、現在の僕の家の直ぐ西に土居下同心の末裔であり、名古屋についていろいろ書いている岡本柳英さんが住んでいた。明治になって土居下同心は名古屋城東の同心屋敷を明治政府軍に追い出され、沼を整地したこの地に住んだようだ。彼の家のまたすぐ西(現在片山八幡神社の東)には尾張徳川2代藩主の光友が建てた「烏天狗の社」があったという。5m平方の土地に2mほどかさ上げした社だったとか。

 この社は光友が江戸から尾張に帰る途中、箱根の山中で見た夢が元であるという。「金城温古録」によると、光友の夢枕に烏天狗が現れ「しずめ、しずめ!」とすごい形相で言ったという。帰国後山伏に尋ねると「同じ烏天狗を作って崇めなさい」と言われたとか。即等身大の烏天狗を造らせて城内で展示させた。だがあまりのリアルさにお女中の卒倒がつづいたため、やむなく片山八幡神社のすぐ東(妖怪街道の際)に社を建て奉納したという。片山八幡神社は継体天皇の御代511年創建だが、荒廃していた神社を光友が再建し、尾張徳川家の氏神となっている。

 1919年、その東を市電が開通することになり、「烏天狗の社」は壊された。僕の生まれる20年前のことだ。烏天狗のお面を買った時の僕はこんな由来を全く知らなかったのだが、このことを知り、なぜ僕が衝動買いに近い状態で烏天狗のお面を買ったのかと考えると不思議な縁を感じ、少し怖くなった。本当に妖怪がいるのかもしれない。
僕が創り出した「光友カラス天狗」は、より強い守り神に見せるため劇画タッチで描いてみた。


⑪光友カラス天狗

光友カラス天狗

⑫「妖怪・六所社マムシ」
出現場所:妖怪街道全般


 現在の我が家からほぼ真北1キロにドラゴンズの選手も戦勝祈願で訪れる六所神社がある。ここは毎年2月26日に祭礼(別名「カッチン玉祭り」)があり、竹の棒にテニスボールほどの飴が巻き付いた「カッチン玉」と呼ばれる参拝土産が売られている。200円から2000円位までの値段。
写真右下:カッチン玉祭りの飴 

カッチン玉飴
 この飴の形、今ではへその緒に似ているから安産祈願の飴と言われている。へその緒説にすると安産祈願につながり飴が売れ、お賽銭も入るから神社にとってはいい。しかし一説には、昔この付近は薄暗い森でヘビなども多かったから松明が必要でそれを形にしたのではないかとも言われている。飴に赤,青、黄色の色がカラフルに塗ってあるから松明説もうなずける。だがてっぺんに丸く巻き付けられた飴の先が蛇のように棒に巻き付いた下部は説明しにくい。この形、戦前悪ガキに連れられて一度だけ妖怪街道に入りそこで捕らえたマムシそっくりではないか。首を竿で挟むと体は竹に巻きつく。口を開くと中は真っ赤。僕はカッチン玉はマムシから来ているのではと考えた。

山八の屋号の入った酒の壺

 この六所神社は片山八幡神社の管轄。片山八幡神社は戦争前まで山田家(屋号、山八)が、全氏子総代をしていた。戦争前にこんな飴が売られていたかもちろん聞いたことはないが、僕の毒蛇説は当たっているような気がする。
写真左:「山八」の屋号が入った酒の壺、僕の祖父は山田本家から支店を出してもらっているために支店の文字が壺に見られる


 このひらめきから「妖怪・六所社マムシ」のアイデアが生まれた。売られているカッチン玉はカラフルだが、この妖怪は黒色と水玉でまとめてみた。おでこからは6個の骸骨頭が出ている。お土産のカッチン玉にもたくさんの顔らしき物がついている。無論僕の絵の様な妖怪にしたら売れないであろうが。



⑫「妖怪・六所社マムシ」

妖怪六所社マムシ

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑧⑨⑩

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑧⑨⑩

 名古屋の妖怪街道にまつわる妖怪を先回から紹介し始めたが、今回もそれに続いて⑧⑨⑩と3つの妖怪を紹介したい。

⑧首塚地蔵
出現場所:延命閣地蔵院から首塚付近

延命閣地蔵院の地蔵 妖怪銀座の西側にこじんまりした延命閣地蔵院がある。
写真右:延命閣地蔵院にある久国寺から一体だけ移されたという地蔵
 このあたりは2度の空襲で完全に焼き払われた。我が家も同じくB29の爆弾で倉庫と飼い猫を失い、さらに2度目の襲撃で柱一本残さず母屋も焼き払われた。この地蔵院は、江戸時代には罪人の処刑場であったことやこのあたりで辻切りが横行したため、暗く陰気で、怨念が祟っているという評判があった。そのため、家康に関係があり、名古屋城の鬼門寺でもある久国寺の八代目の和尚が寺に安置してある六地蔵のうちの1体をここに移し替え、供養をして怨念を鎮めたと言われる。このようなこともありここはその後、お助け寺になったというが、僕は知らなかった。現在の地蔵院は空襲で焼かれ新しくなっているが現在もお助け地蔵と呼ばれている。
 
  この地蔵院の100m程西に10坪ほどの首塚があるが、こちらはほとんで知られていない。この文を書いている途中、妻や娘がこの首塚を知らないというので連れて行った。驚くのはいつ行ってもごみ1つ無くきれいに清掃されていることだ。安産祈願と言ったお金儲けの寺院と違ってここにお祈りしても何のご利益もないであろう。なのにどうしてこのようにきれいに管理されているのか。きっとこのお地蔵妖怪が誰かに乗り移ってやらせているに違いない。僕も妖怪を調べるようになってから美術制作も健康もすこぶるいい。「山彊は妖怪にのめり込んでいてついに妖怪になってしまった」と周辺では言われている。

 ここの妖怪を描こうと考えていたら、切られ晒されている首を抱かえる地蔵が脳裏に浮かんだ。首の中には無実の罪で斬首され成仏できないものも多かったのではないか。赤い前掛けはそれらの雑念を解き放つもので、釈迦入滅後、弥勒菩薩の登場まで必死に現世に留まる衆生を救い続ける菩薩妖怪として描いてみた。賽の河原で獄卒にいじめられている亡者を救うのもこの菩薩と言われる。

⑧首塚地蔵

首塚地蔵


⑨「尼亡霊」
出現場所:尼ケ坂、片山神社付近


 尼ケ坂は侍に騙されて恋仲になり、子まで宿した後捨てられた町娘が尼になり、坂にあった杉の木で首つり自殺したことから尼ケ坂と名付けられ、名鉄瀬戸線の駅名にもなっている。どうしてこんなに暗い名前を付けたのだろうか。尾張徳川藩は殿様の落ち延び街道にしておくため、人々を寄せ付けない工夫をしたと、僕は勝手に想像している。

 この尼ケ坂はその昔は人もほとんど寄り付かないような細い坂道だったと思われるが、敗戦後、占領軍の米兵から日本の生娘を救うという名目で行政が300m北に作った遊郭へ抜けるための幅広い道路となった。男に騙され首吊りしたその名の付いた場所に、男の性処理のため作られた女郎街への切通しをつくるなんて皮肉なものだ。親父がこの道を掘り進めた幾人かの人たちが祟りで亡くなっていると言っていたが調べようもない。そんなこともあってかこの森のすぐ西側にこれ等の怨念を鎮める首塚が今でも存在している。
 4、5年後にはアメリカ軍もいなくなり、もっぱら名古屋市民のための女郎屋街となったが、それも昭和33年の売春禁止法施行まで。しかし今でも丸い外灯や2階の欄干が残っているから昔がしのばれる。あの女優、宮本信子の家も2年前まで残っていた。

 この尼ケ坂付近は誰が訪れても異界に入り込んだような妖気を感じると思う。すぐ隣の片山神社は一説によると、飛鳥時代後期の684年に、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)によって創建されたといわれ、不思議な結界に入り込んだような静寂に包まれている。ここは宮本信子と伊丹十三が結婚式を挙げたことでも知られている。

途中で切られた杉の木
 ここには地面から5mほどのところで切られて、そのまま残っている大きな老杉もある。自殺した尼さんが使った杉の木だとも言われている。どうしてこんな木を無理して残すのだろうか。
写真右:途中で切られているが、ご神木となって紙垂(しで)が掛けられている杉の大木

僕の創作『尼亡霊』はこれ等の雰囲気に動かされ、死後と生前の合体尼妖怪にしてみた。

⑨「尼亡霊」

尼亡霊


⑩妖怪坊ヶ坂
出現場所:坊ヶ坂、片山神社付近

坊ヶ坂
 妖怪の森に建つ片山神社の東隣に細くて不気味な暗い坂道がある。この坂道を「坊が坂」という。前述の首つり自殺した尼さんの幼児が母を追いかけこの坂の途中で力尽きたという。そこで付けられた名が「坊が坂」なのだ。これは自然発生的についた名前であろう。 
写真右:車がやっと通れるほどの狭くて不気味な坂道、亡ヶ坂     

 江戸の文化文政の頃というから人々も経済や文化に恵まれ、思考的にもゆとりがあったのだろう。この時代は妖怪話が一番多く語られた頃だ。北斎もこの頃の人で代表的な浮世絵もこの頃にたくさん描がかれている。日本が誇るアニメ文化もこの時代があったからだと思う。中国や韓国に妖怪話や浮世絵的な文化が少ないのはこのような時代が無かったからだろう。
 
 戦後この森の100m北西に大きな市営のプールができ夏休みになると毎日のように僕らはやってきた。けれど誰も森へ遊びに行くとは言わなかった。蝉もたくさんいたと思うが、子供たちがセミなどを捕らえるのはもっぱら徳川園であった。妖怪が昭和になっても侵入を防いでいたのであろうか。幼い頃、一度蝮取りに入って以来、実はこの妖怪本を書き始めるまで70年近く僕はこの森に一度も来たことがなかったのだ。50m程東にある市工芸高校には知り合いの教師がいて何十回と訪ねているのに。

 ここを歩くと自然に母を追いかけ亡くなった幼児の妖怪が僕に語り掛けてくる。だから妖怪画のイメージはすぐに湧いた。幼児なのに黒い唇をして頭には枯れ尾花のような妖怪の毛が生えている。首にはしゃれこうべのネックレス。右手には亡者を救う錫杖を握り、指に絡ませた1本の蜘蛛の糸は、自分の様に罪もなく葬られた人を助けようとしている。このカンダタの糸は切られることもなく、死界に伸びているようだ。

⑩妖怪坊ヶ坂

妖怪坊ヶ坂

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑦

『山彊創作 名古屋妖怪画集』より ⑦


 これまで①~⑥の妖怪を紹介してきたが、妖怪⑦~⑭はこの画集のポイントである妖怪街道にまつわる妖怪たちを紹介していきたい。そこでまずは妖怪街道とは何なのかを説明させていただく。

 妖怪街道(落ち延び街道)とは:尾張徳川家に万一の事態が起こった場合、藩主が名古屋城から領地の最北木曽の山中に逃げ延びる道で、名古屋城北東の堀を渡り、土居下から東区、守山区(名古屋台地のへり)を通り定光寺(尾張徳川家の菩提寺)に至り木曽へと続く道で、密かに逃げなければならないのであえて開発せず森が多く残された。そのため、そこには妖怪などが出没するという噂など、人々を寄せ付けない工夫もされたと著者、山田彊一が考え、妖怪街道と勝手に名付けた道である。
地図にしてまとめてみたからまず見て欲しい。散歩道としても楽しめるところだ。


スライド1

 さて僕が名古屋の妖怪にこだわり出した理由の一つが、生まれた場所のすぐ脇を走る妖怪街道(落ち延び街道)の存在に気付いたことだ。僕が生まれたのは名古屋城から北東1キロ程にある清水だ。終戦の半年前近くまでここに住んでいた。家は酒問屋だったので、遊び場は離れ座敷や大きな倉庫、いたるところにおかれた大きな木製の酒樽だった。だが商売に忙しい親にとっては子供が邪魔だったらしく、僕はいつも女中さんに連れられて外へ出歩くことが多かった。その女中さんが決して行くことのない場所があった。南側数百メートル先にみえるこんもりした森(名古屋市東区尼ケ坂近辺)で、僕の両親から近寄らないようにきつく言われていたようだ。「切られた首が飛んでいくし、妖怪がいっぱい出る」「辻斬りや、試し切りがあった」「追いはぎもよく出る」「首つり自殺が多い」「毒蛇がいる」等々、親は女中さんや僕にいつも言っていた。
 
 敗戦の1年前近くになる頃は、手代さんも女中さんも我が家からいなくなり、商売より戦争の備え一色になる。スターウォーズの仮面のような防毒マスクが国から配られたが、子供の僕にはサイズが合わなくて親たちは困っていた。だがこの頃大人達は爆撃機から身を守るための大きな防空壕を掘るのに必死で、子供などそっちのけだった。

 僕は近所の悪ガキ数人に連れられ一度だけ妖怪の森に立ち入ったことがある。小学高学年だったいたずら小僧たちはマムシを捕らえるのだと言って竹を半分に裂いた竿を持っていた。マムシは高く売れると言う。そして本当に暫くして捕まえたのだ。捕まえた蛇が本当にマムシだったか単なるヘビだったか、6歳の僕には分からなかったが「頭が三角だからマムシだ」と叫びあっていた。ここから数キロ東には俗にマムシ神社と呼ばれている神社もあるから、かつてはマムシがたくさんいたかもしれない。

写真下左:首塚霊神   右:蝮ケ池八幡
首塚霊神 蝮ケ池八幡宮

 僕の親は終戦後、酒屋の建物が焼失したため商売を辞め、そこから1キロ程東に自分たちの家を建てた。元々そこは山田の土地で借家が建っていたが戦争で燃えてしまったためその跡地に自分等の家を建て、今もそこに住んでいる。この場所は曽祖父が江戸末期に沼を埋めて作り出した土地で、妖怪街道沿いに当たる場所で、名古屋城と前述した尼ケ坂を結んだ線をその倍だけまっすぐ東に延長したあたりだ。僕も妻も娘もそうだが高校は名古屋城の東にある明和高校だ。親父は孫娘が自転車で高校へ出かける折は、尼ケ坂付近は危ないから通ってはいけないと言い聞かせていた。

 また今の僕の家から東1キロ程にある六所神社の2月にあるお祭りには、へその緒の付いたような飴が売られる。これは前述の僕たちが妖怪の森で捕まえた竹に巻き付くマムシそっくりだ。だからマムシ飴にすればいいが、それでは売れないのでへその緒飴として安産をひっかけて売っているのだろう。

 だがどうして名古屋城から東に延びるエリアには怖い、暗い話ばかりが多いのだろうか。明治の頃の航空写真を見ると城からこの森を抜け長母寺に向けて雑木林のような森が連なっている。現在はこの地に学校や公共施設が多い。明和高校、金城学院、市立工芸高校、旭丘高校等がある。何故これ等の学校が連なっているのか。ここのラインは尾張の殿様の長野へ逃げる落ち延び街道で、民家が少なかったからだと僕は思う。だから明治以後、ここにたくさんの学校を建てることができたのではないか。ただし明和高校は付家老成瀬家の屋敷跡、金城学院高校は中級武士の屋敷跡に建てられている。

 尾張の殿様はこの逃げ道に人々が入らないよう怖い、暗い話を作り上げ人々を寄せ付けないようにしたのだろう。面白いことにはこの妖怪街道が名古屋市で人口の一番少ない東区にすっぽり入るということだ。そんなこともあり僕はここを妖怪街道と命名し、その中心の森(尼ケ坂)を妖怪銀座と呼ぶことにしたのだ。否、僕が名付けたのではなくもう言われていたような気がする。実際にこの地に来て実感して欲しい。どこにも見られない異様な霊気を皆さん、感じられるだろう。行かれたら不自然に切られた大木やビルの名前等を確認してほしい。妖怪銀座と呼ぶ僕の気持ちも分かって頂けると思う。

さて今回は妖怪街道にまつわる妖怪⑦を紹介させていただく。

⑦飛び首
出現場所:東区尼ケ坂、延命閣地蔵院付近
 
 女中さんとたまに久国寺方面へ散歩に出かけると「夜、あの森から光る首が飛んでいくのよ」と言って僕を脅す。ここが妖怪の森との結界らしく、彼女はこれ以上南には行かない。どんな首が飛んでいくのか尋ねることも怖くて僕にはできなかったが、幼いながら僕の想像は膨らんだ。妖怪「飛び首」の原点はこの時に遡る。

 50年ほど前、僕は一人インド側から開通したばかりのバスでチベットの奥地のラダックに入った。バスは2日かけて一気に4千メートル以上まで上がるため、僕は高山病になりバスの中で意識を失った。運転手等に介抱されどうにか近くの民宿に担ぎ込まれることになった。その夜、僕は死を覚悟した。頭は割れるように痛く、脈は運動会で100メートル走った時のように打ち続け、空気が薄いから窒息しそうで,風の入る窓の隙間に顔を付け金魚のようにパクパクやっていた。もともと空気が70%程しかなく吸ってもすっても苦しみは同じだったが。夜明けになりヒマラヤ山系に朝日が昇るのを見て「ああ、生きていた!よかった」と感じたことを思い出す。光は生の実感を演出するようだ。

チベットラダックの寺院壁画
 身体が少し回復すると、直ぐに各所に散らばるゴンパ(寺院)の探索に出かけた。土と木で造られたゴンパはカラフルな壁画に囲まれ、さながら妖怪の里の様であった。年間雨量が10ミリのため食べ物に恵まれず、そのための混乱を防ぐため怖い脅しの絵が必要なのだろう。一妻多夫は食料が少なく人口を増やさないためであろう。これらの絵を見ながら、ふとこの首、どこかで見たような気がする。そうだ幼い頃、近くの森から飛んでいく首、当時勝手に想像した首に似ていると思った。らんらんと輝く目、燃え盛る炎のような髪、平たい大きな鼻、壁画の絵は僕の幼い頃の想像と重なり、妖怪画「飛び首」のイメージとなった。
写真右:チベット・ラダックの寺院壁画


⑦飛び首

飛び首
カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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