幻となった父娘「神奈川県美術展」同時入賞

幻となった父娘「神奈川県美術展」同時入賞

神奈川県美術展パンフ
 僕の娘は神奈川県に住んでいて、そこで働いている。先々月のゴールデンウィークに孫を連れてやって来て「来年から育児休暇を終え職場に復帰するともう絵を描いている余裕がなくなる。最後のチャレンジとして神奈川県美術展に出したい」と言ってきた。写真右:神奈川県美術展パンフ

 神奈川県美術展は昨年から全国公募になり、大賞賞金も200万円になった。かなりレベルが上がる筈だ。全国コンクールになるまで娘は数回入選をしている。「お父さんと一緒に出せば賞は取れなくても父娘同時入選、ひょっとすれば同時入賞で(こちらはもう冗談)マスコミが取り上げるかも」とも言われ、そうか、そういう面白さもあるなと思い40年ぶりぐらいでコンクールに出してみた。もう賞は関係ないとしても、自分の作品が今の若者たちの作品に交じって展示されてどう戦えるかを見たかったこともあり、2年前に描いた妖怪画の半分を切って150号にして出品した。
 結果、僕は入選したけれど娘は落ちてしまった。ここで父娘同時入賞or入選が幻となった。

写真下左:僕の作品(一番左) 150号が小さく見える。みな大きな作品ばかりで運搬や保存が大変だろう。
写真下右:自作の前の僕。2年前に描いた作品だ。まあこの作品なら若い画家たちとも十分に戦えると思っている。

僕の作品(一番左) 自作の前で
 
会場風景
写真右:美術展会場風景
 神奈川県美術展は、今日本の美術コンクールの中で一番レベルの高い美術展の一つではないだろうか。このコンクールは外国の美術展や日本の大きな美術展がそうであるように洋画、日本画、版画、彫刻、等を区別せずにそれらをまとめて一つの「平面立体」部門の美術作品として審査をするのだ。(全部で4部門があり、他は工芸、書、写真だ)こうなると創造性に乏しい日本画等の伝統芸術は他の作品と勝負できず、100点弱の入選中2点程しか入っていなかった。他のファイバー(織物)アートやキネティック(電気)アートといったものも見本として1点が入っているにすぎなかった。版画も小さくて見ごたえがなく3点程の入選だった。
 その中に僕の版画教室の生徒が一人っていた。彼女は今年、春陽展で大賞をもらい、世界で一番入選がむつかしいと言われる高知国際版画トリエンナーレにも今年入選した。版画のレベルは日本が世界で一番と言えるので日本で一番ということは世界で一番ということになる。その日本でもかつては東京国際版画ビエンナーレ、和歌山国際版画ビエンナーレ(1985年の第一回和歌山国際版画ビエンナーレ展で僕は大賞を受賞した)という世界に通用する版画展があったが、それらがなくなって今は高知国際版画トリエンナーレが難関の版画展として残っている。
 この高知国際版画トリエンナーレには彼女以外に3人、僕の教室の生徒が入っている。「山田教室は何故次々と賞を取る版画家を輩出しているのですか」といった質問をよく受ける。それは皆さんやる気ある人が多いからだ。けれど僕の教えることも少し影響しているかもしれない。いろんな美術教室で教えるほとんどの先生は自分の作品の真似をさせるだけの人が多い。もしその先生のレベルが大したことがない場合、生徒はそれを越えられないのでどうしようもない。私は人のやっていない技法を紹介し、芸術は模倣でなく創造であると言う当たり前のことを教えているだけなのだ。

 ところで神奈川県美術展だがこの創造の精神で審査が行われていると言ってよい。凄くうまいけれどどこかで誰かがやっていたと思われるものはほとんど入っていなかった。下手だけれど可能性があり自分の世界を持っている作品や超個性豊かなものが入っていた。

大賞作品 準大賞作品
写真上左:大賞作品(小学生が描いた様な作品だ。僕は斬新で面白いと思う。けれど名古屋のほとんどの画家は美術の最先端の動向を勉強しようとしないからこの受賞に同意できず戸惑うだろう)
写真上右:準大賞作品(2メートルほどの大きさで誰かの真似をしたものではない。これも一般の彫刻家は理解不能だろう)


 ここでの大賞作品や準大賞作品などは、もし日展、二科展と言った公募展に応募していたら真っ先に落とされるだろう。逆に日展や二科展等公募展の作家はこのコンクールでは誰も入選しないであろう。僕の娘の作品はかなりうまく公募展なら賞を取っただろうが、このコンクールではいまいち個性に欠け、選を逃したと思われる。普通の美術展、あるいは地方の美術展ならこれで文句なく入選だが。神奈川県美術展を甘く見た。

写真:会場内の作品群
下左:牛の彫刻(製作費だけでも100万円はするのではないか)
下右:額縁にボロ?布を巻いた作品

牛の彫刻 額縁に布を巻いた作品

1960年代、世界的な芸術の新しい波が押し寄せ、日本でも現代美術の革命が興った。次々と新しいアートが生まれ、ヒーローアーティストが現れたが、今はそれらのアイデアを焼き直して使い、うまくまとめて描くだけになっている。その停滞に気付いた若い芸術家やその関係者たちがこれからの新しい美術の歴史を創っていくのではないか。その変化の片鱗をこの美術展で垣間見た気がした。

大きなおにぎりのような石の彫刻作品
写真左:大きなおにぎりのような石の彫刻作品
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インドネシアのバリへ妖怪に会いに行きませんか

インドネシアのバリへ妖怪に会いに行きませんか

 今年5月に開催したサンクトペテルブルグでの美術展から帰ってすぐ、教え子たちが「バリ島で日本とインドネシアの芸術交流会を行うので先生、代表をやってくれませんか。仕切る人がいないんです」と言ってきた。当然僕は断った。ロシアから帰ったばかりだし、10月には2週間に及ぶソウル個展があり、11月にはチェコの日本人祭に参加して作品を出せと言われているしと、ものすごいスケジュールだ。「先生の予定が入っていない日に合わせるから、何とかして」と泣きつかれ、結局代表も引き受け9月に出かけることにした。教え子に頼まれると嫌と言えない僕の「教え子ファースト」の信条を教え子たちは知っているのだ。

 だが突然のことで参加メンバーが10人程足りない。いつも僕の企画する海外の美術展に参加してくれる教え子の多くはロシアのサンクトペテルブルク展に参加したばかりなので、海外にこんな短期間に続けては出掛けられないし、これ以上留守にして家族に迷惑をかけられない、ということで参加は無理だ。


バリ募集案内

 というわけで今回のこのブログは芸術交流会を兼ねたバリ旅行のお誘いです。このブログをご覧になった方で上記の芸術交流会に興味があって行ってみたいと思われた方はぜひご参加ください。男性の方で僕と相部屋でよければ、宿泊費が半額になるし、僕も助かります。写真では読みにくいかもしれませんので下に重要な点を書いておきます。

日時:9月20日〜9月24日(現地3泊5日間)
費用:178,000円(運賃と宿泊代、参加費用)
主催:愛知芸術文化協会
申し込み:日通旅行(株)/受託販売:(株)エヌ・ティ・エス(052-231-7576)
担当:篠田さん
※出品作品の大きさやスタイルは自由です。勿論観光だけでもよろしいです。


 さていろいろ経緯を述べたが、だからと言ってバリへの旅行は、いやいや行くわけではない。僕はこれまで数回バリを訪れたがとても楽しいところだ。

写真下左:バリの家の庭先におかれた像、笛を手に持っているようなので音楽家の家かもしれない
写真下右:門前の神様の彫刻と僕

バリの家の庭先 バリの家の玄関前の妖怪像 

 町の中の家々の門の前には神様、はたまた妖怪のような絵画や彫刻、レリーフなどが飾ってありそれらを見るだけでも興味深い。バリの人々にとってこれらの‘妖怪’は家の守り神でありガードマンでもあるのだろう。でも僕の目から見るとこれらは完全な妖怪だ。

写真下左:バリの浜辺にあった小舟、舳先が妖怪の顔になっている
写真下右:街中の市場で売られている豚の丸焼き

バリの浜辺にあった小舟 豚の丸焼き

 前回のブログでも書いたが僕は2年後に妖怪の画集を出そうと思っているので、もう一度バリを訪れて‘妖怪たち’に再会し僕の妖怪画にプリミティブなイメージを加えられたらと思っている。
 僕が名古屋の妖怪を大きく油絵で描く気になったのは、アマゾンの2017年上半期全国和書販売ベスト20に僕の『名古屋力・妖怪篇』が入っていたことが一つの要因だ。何十万何百万の本が書かれ出版されている中で、これは夢のような話だ。僕の妖怪が市民権を得たのだろうか。だとすれば、『名古屋力・妖怪篇』の文の挿絵として描かれた妖怪画を本格的な油絵でより大きく描いて妖怪画集を出版すれば、よりリアルな妖怪が楽しんでもらえるのではないかとも思っている。

 ところで僕の家の応接間の壁には40個近いお面が飾ってあるが、その中の1割はこのバリで10年以上前に購入してきたものだ。
写真下
我が家にあるバリのお面1 我が家にあるバリのお面3

我が家にあるバリのお面2
 僕が病気もせず、作品を創り続けられるのはこれらの妖怪が僕を守っているからかもしれない。日本の家の玄関には邪悪な者から家を守る門かぶりの松を植える風習があるが、これもバリの玄関先にある妖怪たちと同じ役目をしているのではと思っている。



画家、近藤文雄さん亡くなる

画家、近藤文雄さん亡くなる

近藤さん自画像
 絵描きとしての僕の最高のライバルだった近藤文雄さんが6月15日に亡くなった。
写真右:近藤さんの18歳の時の自画像
6月17日に葬儀参加のため豊川まで行ってきた。つい3か月程前、彼の教え子の宮本さんの個展で元気な姿の彼にあったばかりだった。葬儀場では、奈良美智を早くに発掘し彼の個展をやった白土舎のオーナーである土崎さんにもお会いした。近藤さんを認め最後まで支援した画商界のプロだった。

写真下:宮本さんの個展会場で 左から宮本さん、近藤さん、宮本さんの作品、僕
左から宮本さん、近藤さん、作品、僕

 近藤さんは僕の大学の1年先輩ですごく気になる存在だった。1960年代は彼の全盛期で美術雑誌には彼の作品が度々載っていた。
 60年代は戦後の日本が高度経済成長を目指して突っ走っていたひずみから、東大紛争に代表される学生運動がおこり、それに連動してアングラ演劇や前衛芸術など反体制のカウンターカルチャーが全盛となった時期だ。僕は日本の現代美術の真の誕生は1960年代で、日本の現代アートの礎が作られたのもこの時代だったと考えている。
 当時新進気鋭の画家たちは、旧来の年功序列の徒弟制度的美術公募展を無視するようになり、やる気のある画家のほとんどはフリー宣言をした。僕も1962年には公募展を脱退し個展を中心に動きだしていた。だからフリーで活動する近藤さんの動きはすごく気になっていた。

スキー場にて 講談社の世界現代美術全集に載った僕の作品の次のページに彼も選ばれて載っていた。この愛知では二人だけであり、その意味でも彼は僕の最高のライバルであった。
 大学時代には、僕の好きな先輩の丸顔でふっくらしたスキー好きの勝埼さんを彼も好きで、大学時代からの恋のライバルであった?とも言える。
写真右:近藤さんの好きだった彼女(上段中央の僕が肩に手をかけている女性)

 「この地には庄司達さんや斎藤吾郎さんと言った芸術家もみえるのではありませんか」。2人もすごいが彼らは1970年以後に登場してきた人達だ。近藤さんと同列に比べることには無理がある。1970年に開催された大阪万博はあらゆるものを呑み込んで学生運動やカウンターカルチャーは収束に向かっていった。70年代は美術史の中では大きく扱われない時代だ。

 葬儀場で出会った彼の教え子から「山田さんも近藤さんを気にしてたけど、彼もあなたのチャレンジ精神や多くのコンクール展で次から次へと賞を取っていたことに、すごいなあと感心してましたよ」と言われた。

 もう一つ彼について思い出がある。例のごみ裁判事件(後輩の美術学生たちが愛知県美術館にごみを彼らの美術作品としてを出品し、美術館側がそれを撤去したため裁判沙汰となった事件)に関してだ。僕が怯えながらも学生たちのために裁判証言を引き受けたのは評論家の針生一郎さんと近藤先輩も証言を引き受けたからだ。ところが近藤先輩は裁判の前日、体の調子が悪いとか連絡をしてきて裁判当日は欠席してしまった。これに僕は超、超、仰天した。これから僕に何が起こるか予測できたからだ。彼は愛知県知事(裁判の被告)相手に戦う恐怖に耐えきれなかったのだ。それは保守的なこの地の全てからいじめられ疎外されることを意味していた。名古屋の僕ですら恐怖したのだから、もっと田舎に地盤がある彼の行動は分からなくもない。けれど彼が証言を放棄したその分、僕に体制側からの圧力、いじめがかぶさることになった。だからその分なおさら許せなかった。このことがあってから彼は僕にとって尊敬する先輩からただの絵描きのライバルになったわけだ。60年代すでにその作品が大きく認められた彼としては、そんなこともあり次へのチャレンジをしなくなり、守りに入ったと僕は感じていた。
 
 一方この裁判で僕はこの地の全絵描きや美術関係者から無視されることになった。僕は四面楚歌の中で雌伏十数年、起死回生を試みて様々なチャレンジを続けた。しかしこれが今になってみるとよかったかなと思っている。裁判がなかったら1960年代の自分の功績に甘んじて、再チャレンジはなかったかもしれない。

 しかしいずれにせよ彼が亡くなったことはこの愛知県の芸術界にとってすごくマイナスになるのではなかろうか。彼には名古屋学芸大の小笠原教授や著名な版画家の土屋氏、山口氏と言ったすごい教え子を残しているから、ただ亡くなったと僕は思いたくない。
 最近僕の周りを見回すと60年代の激動の美術界を生き、その深層までを知っている絵描きはもうほとんどいなくなってしまった。今では僕が60年代の生き証人になってしまったかもしれない。

日本中の大きな美術館に彼の作品はコレクションされている。いずれ作品でもう一度彼に会えるのを楽しみにしている。
写真下左:愛知県美術館収蔵の近藤文雄作品  右:名古屋市美術館所蔵の彼の作品
愛知県美術館収蔵作品 名古屋市美術館収蔵作品


※悲しいこともあったが、最近僕にはいい驚きがあった。パソコンで近藤さんの活躍を見ていて、ついでに僕のコーナーも見たら、4年前に出版した「名古屋力・妖怪篇」(ワイズ出版)が2017年上半期売り上げ全国和書ベスト20傑(アマゾン発表)に載っていたことだ。これは何かの間違いではと思って、他も調べていたらその2年前に出版した「名古屋力・アート編」(ワイズ出版)の2,200円の新本が何故か26,724円になっていた。
写真下左:名古屋力・妖怪篇   右:名古屋力・アート編
名古屋力妖怪篇 名古屋力アート編

 僕が死んだわけでもないのに何故だか分からない。妖怪につままれているような気がする。何かが僕を衝き動かしているのだろうか。ならばと、この勢いで2年後に名古屋の妖怪画集を出すことに決めた。この1か月で60号の大きさの絵を4点描いた。できればで49匹の妖怪を描きたいと思っている。

サンクトペテルブルク美術展 第3弾

サンクトペテルブルク美術展 第3弾
ロシアの食事

僕がとった朝食
 今回の美術展でサンクトペテルブルクに行く前、料理にうるさい参加者の女性から「3年前のクリミア併合以降、ロシアはフランスやイタリアから農作物の輸入をストップされているからおいしい料理なんで食べられるはずがないわ」と言われた。
写真右:僕がとった朝食の一部
 滞在の途中も、車から野菜類が降ろされるのを見つけた彼女は、即、「見て、あの野菜類、日本なら廃棄される野菜だわ。形も色も悪いし皆しなびてる」と叫んでいた。事前に日本のテレビ報道や雑誌で確認してきているとのことで説得力がある。僕には遠すぎてしっかり見えなかったが。
 「いい食材がないから、色々変わったことをして味を誤魔化している。何故スープにラッキョウが入っているの?しなびたサラダの上にマグロのフレークがのっかっているのは何故?これヨーグルトで味付?インチキだわ」。いくらでも悪口が出てくる。さすが名古屋の伝統ある女子大の出だけある。中学から食事作法の勉強が、大ホテルを使って行われたと言う。

豪華なレストラン入口
 参加した皆さんのほとんどは旅行後「料理はまあまあだったね。おいしかったわ」と言っていて引率した僕としては少し安堵した。僕自身はというと、まあ、おいしかったかな?レストランはほとんどが旧貴族の豪華な屋敷を再利用したところばかりだった。写真左:レストラン入口のホール
 だから豪華な装飾や家具、壁に掛った絵画など周りのことに気を取られ、実を言うと食事の味がどうだったのか思い出せない。口に入ったということはおいしかったということだろう。あるレストランではスパイスとして小皿に日本の醤油が出てきた。「これが一番おいしいわ」先ほどの食にうるさい彼女が言った。そう言われてみると僕も同感だった。慣れ親しんだ味はおいしい。

 僕は料理の味なんてほとんど気にしない。どこへ行ってもレストランのものならまあ食べられるに決まっている。まずかったら店は即、潰れてしまう。食通を自認する人はほんの数パーセントの味の差でおいしいとかまずいと言いあっているのだ。時間をかけていろいろスパイスや調味料を混ぜれば少し味はよくなる。僕はいろいろ混ぜることによって体によくない化学変化が起こるのではと恐れている。行列のできるラーメン屋の親父が早く亡くなるのはそこに原因があるのではないか。僕にとっては料理はシンプルなのが一番だ。

 ホテルの朝食のバイキングで積んであった青リンゴは色つやがよくとてもおいしそうだったが、食べたら水気がなく、パサパサして日本のとは全然違っていた。
次の日の昼食には焼きリンゴがデザートとして出た。

写真下左:デザートの焼きリンゴ  右:半分に切った焼きリンゴ
焼きリンゴ 半分に切った焼きリンゴ

 青くきれいな小ぶりのリンゴだった。キレイなのは一部しか焼いてなく生のリンゴの色が大半だったからである。昨日の青リンゴはまずかったが、今日の焼きリンゴはすごくおいしそうに見えた。だがまずかった。リンゴの中央をくりぬいて中に砂糖やバター、シナモン等が入っているようだがしっかり焼かれていないから半生の味だった。しっかり焼けばおいしいかもしれないが。

 味に無頓着なこんな僕でも、真にまずいと思ったことがある。インド、スリナガルでは水や洗剤が貴重だからか、食器をほとんど洗わず、自分の汗を拭いているタオルで拭いているようだった。皿を手で持ったらねばねばし、強烈な汗のにおいがした。たとえおいしい料理が出されても帳消しだ。でもここでは朝のトーストと胡麻がたくさんのったバターがおいしかったのでそれを選んでパンに塗って食べていた。4,5日泊まった後、おなかがすいたので昼に市場で買ったジャガイモを自分で茹でようと台所へ勝手に入ってみて驚いた。そこにはバターが蓋をせずにおかれており、なんとその上に無数の小型のゴキブリがうごめいていた。僕が喜んで食べたバターの胡麻はなんとゴキブリの糞だったのだ。おいしいと思って食べたトーストが気持ち悪くなった。これらは食物自体の味のまずさとは言えないが、人間の味覚なんていい加減だと思った。味は周りの状況が大きく作用する。

ボルシチ
 話をロシアに戻すと、トマト味のボルシチはまあだいたいおいしかった。これはロシア料理の代表と思っていたら、前出の彼女がウクライナ料理だと言った。
写真右:ビーツの根が入ったボルシチ
 おいしく感じたのは一緒に食べたパンのせいかもしれない。ここロシアのパンはどんな種類のパンでもとてもおいしい。主食となる小麦は一般市民が食するため、欧米は輸出を認めているのだろうか。まあパンがうまかったから料理はどうでもよかったとも言える。
写真下:おいしかったロシアのパン
朝食バイキングのパン

レストラン内部
 その後僕等はモスクワに移動したが、モスクワのレストランもかつての貴族の屋敷を利用しており室内装飾が超豪華だった。ここも室内が暗く何を食べたか定かでない。
写真右:レストランの暗い室内
「ピロシキもおいしかったでしょう」と尋ねられたがいつ食べたかも覚えていない。大金持ちの貴族の気分になれたのはよかった。トイレに入った折、便器の形がドーム型ピロシキのようなのが並んでいてその珍しさに、料理のことなどまた忘れてしまった。

写真下:丸い陶器の便器を備えたトイレ
丸い便器のトイレ

 トイレと言えばエルミタージュ美術館は広大な宮殿なのにトイレは1,2か所ぐらいしかなくそこにたどり着くのが大変だった。当時の貴族もトイレに苦労したのではないか。かのベルサイユ宮殿では貴族の女性たちはカーテンの陰で用を足したと言う。ベルサイユではそんなこともあり3年ごとに宮殿内の大掃除をしたと言う。「カーテン際でおしっこをしたら部屋中臭いのではありませんか」。この地域は空気が乾燥しているから我々が思うほどには臭くないようだ。フランス旅行中に夜洗ったジーンズを干しておいたら朝には乾いていて僕はびっくりしたことがある。

モスクワ赤の広場
 ところでモスクワ赤の広場のトイレでは大変だったと女性群が話してくれた。
写真右:モスクワ赤の広場、この写真のまさに右側にトイレがある
レーニン廟の並びにあるここのトイレにはたくさんの小個室があるが、利用者が多すぎて行列になっている。やっと入ったら便器があっても便座がない。他の個室に変わろうとしてもまた何十分も並ばねばならない。已む無く便座なしで何とか用を足したそうだ。僕に近い年齢のおばさん達は腰をかがめて戦後の農家のおばさんスタイルで、50歳以下の身の軽い人は便器に乗っかり、足の長い人はまたいだという。旅慣れている人は輪ゴムを常備していてズボンやスカートを中途で止めたりしたという。全部の個室のトイレに便座がなかったようだった。男性用トイレも同じだったが、小便に関しては男は問題がない。これが観光の目玉の赤の広場の、ただ一つのトイレだなんて信じられない。ロシアは女性が虐げられているようだ。それともロシアの女性は全員立って用を足すのだろうか。「それよりもこんな話よく女性群から聞き出したわね!」


サンクトペテルブルク美術展 第2弾

サンクトペテルブルク美術展 第2弾
サンクトペテルブルクからモスクワへ


サンクトのモスクワ駅全景
 サンクトペテルブルクからモスクワへ行くために、サンクトの街のモスクワ駅(写真右)に行った。駅は欧州のどこにでもある普通の建物で、ロシアの人口第2の都市の駅としては貧弱だった。駅前の街の賑わいも愛知県でいえば一宮か豊橋くらいだ。ここはちょっと変わっていて駅名はその土地の名前では無く、目的地の名前が駅名になっている。そのため目的地別に駅舎は別々の建物になっている。初めはまごつくが慣れればわかりやすい。

駅の構内
写真左:サンクトのモスクワ駅構内
 ここでも中国の駅と同じように入り口で厳重なボディーチェックを受けた。つい1ヵ月前サンクトペテルブルクの地下鉄で自爆テロがあり14人が亡くなったばかりだからよけい厳しいのだろう。自爆テロのあったその地下鉄の駅まではここから1キロもないのではないか。
 

 モスクワ駅のプラットホームの線路上には新しい日本の新幹線とくらべても見劣りしない列車と、落書きだらけの50年前イタリアで乗ったような列車が止まっていた。
写真下左:我々が乗った新幹線スタイルの列車   右:車体に落書きされた列車
我々が乗った新幹線スタイルの列車 車体に落書きされた列車

横を向かれてしまった車掌さん
 我々はグラマーな車掌が立つ新しい方に乗った。乗る前にその車掌との2ショットを撮ろうとしたら厳しい顔で横を向かれてしまった。(写真右)

 車内の座席は真ん中の通路を挟んで左右に2席ずつ。座って驚いた。座席はリクライニングシステムがなくまた向きを変えることもできなかった。要するに座席が固定されたまま動かないということだ。だから列車はモスクワまでずっと乗客全員が進行方向に対し背を向けて走ることになった。逆にモスクワからサンクトペテルブルク行きに乗ればずっと前向きということになる。

パソコンを打つ車内事務員
 我々の座席のすぐ前には特設コーナーが設けられ、列車の事務員らしき女性がしきりとパソコンを打っていた。(写真左)会社の受付の様なものと思えばいいか。そこにしきりに男の車掌がやってきて何か連絡を入れていたが、僕にはいい寄っていたとしか映らなかった。何となく映画を見ている気分になった。

車内のトイレ
 列車のつなぎめ前にはトイレがあってこの個室、入ったら2畳以上あった。車いすの客とその付き人が入ったとしても充分な広さだった。プーチンが乗ってトイレを使った場合、ガードマンが2,3人入るためだろうか。
写真右:広いトイレの個室

 さらに向こう側にはコーヒーショップがあって立ちながらの商談もでき、我々もそこでコーヒーを飲んだ。なぜかわからないが僕はジャンギャバンとアランドロンの気分に浸り、爽快であった。(年が分かるね、いやそれどころか「誰、それ?」なんて人の方が多くなっているかも。つい先日ドロンは俳優を引退するとニュースで読んだところだ) 勿論僕がドロンでギャバンは腹の出た仲間の大須に住む酒好きの馬場さんだ。その隣にはスタイルのいいナタリー・ドロン似の版画家の杉藤さん。今思うと何故007のジェームズ・ボンドでなかったか不思議だ。「ロシアより愛をこめて」など大好きだったのに。「それ分ります。ロシアの暗い荒涼とした景色の中を走る列車には、まさにフランスのフィルムノワールの雰囲気が漂うし、その代表スターともいえるギャバンやドロンの方がボンドよりはるかにしっくりきますから」

車窓風景
 車窓の風景は雑木林が中心でそれと広い農地があったりした。また時折通り過ぎる小さな村には壊れかけの家々が立ち、絵本で見た中世の雰囲気に似ていたため、このあたりにはロシア経済の恩恵が行き渡っていないのだろうかと思わされた。ロシアに来るまでは、車窓から見えるロシアの大地の風景をいろいろ想像し憧れてもいたが、現実に眺めていると何もないという感じだった。
写真上:車窓風景、蒼空と雲がブリューゲルの絵を思い起こさせた
これまで訪れたドイツやスウェーデンなどの車窓風景より劣る気がした。5月の中頃だというのに雪が時折残っていたことが印象に残ったくらいだ。

線路に捨てられた煙草の吸殻
 この列車は車内では禁煙なので、途中の田舎駅で喫煙休憩のため臨時停車する。愛煙家の多くが急いでホームに降りて煙草をふかし始めた。僕はタバコを吸わないが気晴らしにホームに降りてみた。灰皿がどこにもないなと思ってふと線路上を見ると喫煙者が投げ捨てた吸い殻が雪のように積もっていた。
写真右:列車とプラットホームの間に捨てられ、線路に積もる煙草の吸殻
ロシア人は男女とも喫煙者が多いという印象を受けた。

 空は晴れてブリユーゲルが描くような雲が澄んだ青空に浮かんでいた。これがほんとの雲であろう。1か月前に行ったソウルや北京ではいつも空がかすんでいて、天気予報は曇りと伝えるが全体が薄暗く、曇りという割には雲らしい形のものは見られなかった。あれはPM2.5などで空気が汚染されているのであろう。以前北京のガイドに「これはスモッグだよ」と言ったら、顔色を変えて「雲です」と反発を食らってしまった。空気汚染で薄暗いと言わずに曇りだと言うように指導されているようだった。

 僕は外国を数多く訪れたが、ほとんどが一人旅であった。近頃は皆さんを連れての旅が多い。年を経ると自分だけの楽しみより周囲の人にも喜んでほしいのだ。スペイン、ドイツ、メキシコやニューヨーク、そして今回のロシアでの美術展は皆と一緒の旅だ。「山彊先生の画歴がないと展覧会の許可が下りないでしょうね」。なんて言われるたびに喜んでいる。外国では日本独特の公募展の団体の経歴や肩書などは全く評価されない。世界レベルの展覧会への作品発表をしていてよかったと最近になってその効果を実感している。

 だがまあ、皆さんを連れて行くのはいいが、独り旅のように行きたい道を行きたい時に自由気ままに歩くことができない。だから文章にしたりした場合、臨場感がわかないのは残念だ。一人旅だと危険な場面に遭遇するのはしょっちゅうだが、その緊張感がまたたまらない。危機一髪の事件が次々と起こって書くことがいっぱいになる。

 例えば10年程前のモスクワのローカルな飛行場での話だが、座っている僕に中年の男が「どこへ行くのですか」と話しかけてきた。それに答えると「その乗り場はここではありません。向こうです。荷物を持ってあげるから移動しましょう」ときた。これは典型的な詐欺の手。荷物を持たせたらどこかへ消えてしまう。僕は世界の危険な地域へ何回も行っているので、危険を察知する動物的感が働き、これは怪しいと無視をした。

 またグルジアへの旅行では、滞在ビザは日本では取れないので、グルジアへ入った後に取るように言われていた。そこでロシア経由で隣国のグルジアへ入り、グルジアの空港でビザを取ったが、なんと1週間の期限付きだった。僕は12日間の滞在予定だったのだ。空港で必死に交渉するも、「だめだ、街に出て発行してくれる機関を探せ」と言われた。グルジアには日本の大使館はなく、グルジア語は全くわからない。滞在中一人の日本人にも出くわさず、どうしようと真っ青になった。その後偶然レストランで片言の日本語で声をかけてきた子連れの男性と知り合いになり、彼に助けてもらって九死に一生を得た。

 逆況の中でどう対処していくか、これがいつも僕の旅行中の課題だ。これを乗り切って日本へ帰った後には心地よい達成感に満たされる。これがあるから一人旅はやめられない。

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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