ハロウィンで僕等は妖怪に化け大須を歩きます

ハロウィンで僕等は妖怪に化け大須を歩きます!

大須ハロウィンのお知らせ (1)  大須ハロウィンのお知らせ (2)
写真上左右:大須ハロウィンのお知らせ

パレードに向かう途中の地下鉄で
 昨年(2016年)、僕のニューヨーク個展の折、お手伝いに来てくれた画家仲間とニューヨーク、マンハッタンのハロウィンに参加した。赤い着物に緑色のかつら、草履をはいて、手には妖怪人形を抱かえた出で立ちだった。
写真右:パレードに向かう途中の地下鉄で

メンバーの一人である豊橋の人形作家が、そのおどろおどろしい妖怪人形を制作してくれたのだ。全員このスタイルであの怖い(と言われていた)ニューヨークの地下鉄にも乗った。けれど怖いどころかぎゅうずめの車内でも乗客のニューヨーカーは興味津々でフレンドリー、皆から写真を撮らせてと頼まれ僕らはそれに応じた。ハロウィン当日だったから仮装した人はいっぱいいたが、みな西洋風の仮装スタイルで日本的な仮装の我々はとても目立っていた。駅構内を守るお巡りさんも喜んで僕等と一緒にスナップ写真におさまってくれた。

パレード出場の準備中 パレード参加中  
写真上左:パレード出場の準備中の僕  右:フラッシュを浴びながら歩く
 参加した仲間たちはパレードの行進中、例えばカンヌ映画祭でレッドカーペットの上を歩くくらい興奮し緊張したという。沿道を埋め尽くす何万人もの見物人の中をカメラのフラッシュを浴びながら歩くのだ。
 
ニューヨークハロウイーン (300x200)
 ところで最近では、東京でもハロウィンが盛んになり渋谷付近で様々な仮想をした人々が歩き回り、ニューヨークに負けない賑わいであるという。ところが名古屋では市民がシャイなのか、名駅や栄をハロウィンスタイルで歩く人がいてもまばらで盛り上がらない。ニューヨークのように市が動いて道路を封鎖して祭りを盛り上げる気もなく寂しい限りだ。
写真右:ニューヨークのハロウィン

 そこで僕(名古屋をアートで面白くする美術家の会・代表)はニューヨークの経験も生かし、名古屋でニューヨークの再現をしたいと思う。行政や市民に同じ事をやりたいといっても新しいことに消極的なこの地は、このために動いてくれるわけもなく、まずは僕らが自主的にやって盛り上げ、きっかけを作ろうと思っている。場所は古くからの門前町であるけれど新しいものを受け入れてくれる大須が最適だと考えている。以後大須商店街や市が動いてくれるのを願っているのだが。大須も以前は大須ういろうの社長やアメ横の会長がこんな面白いことにはすぐに賛同して動いてくれたが、今はまとめる人がいないらしいのだ。


 そこで皆さん、もし興味がありましたらカボチャのお面や妖怪のスタイルで一緒に歩くなり、見物するなり、どんな形でもご自由に参加してください。名古屋を面白く盛り上げていきましょう。そして訪れたい街の最下位を脱しましょう。
日時:10月31日(火) 5時pmより6時pm
場所:大須ふれあい広場(別名、招き猫広場)商店街東南に集合
   そこから大須観音まで歩く。あとは自由に、流れ解散。


大須ふれあい広場
大須ふれあい広場  大須ハロウィンのお知らせ(3)



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豊田市美術館の「奈良美智 for better or worse 」展を見て

豊田市美術館の「奈良美智 for better or worse 」展を見て

奈良美智展
 奈良美智展を豊田市美術館で見て来た。ものすごい見学者の数だった。戦後、アメリカンアートの洗礼を受けた僕等絵描きにとってうれしいことだ。模倣でない創造のアートに関心を持ってくれる人が多いということの証だからだ。見学者の年齢層が様々なのもうれしかった。ヨーロッパの印象派関係の展覧会や日展、二科展と言った展覧会に来る層とも違う。圧倒的に若いし子連れも多かった。見学者の服装もカラフルで軽やかに感じられた。

写真下左:混雑を避けるため別に設けられたチケット売り場
写真下右:美術館前の庭を散策する来館者


別に設けられたチケット売り場 美術館前庭

 気になったのは日本で一番数が多いと言われる名古屋の一般の絵描きに会えなかったことだ。愛知県の美術展に行くと、必ず数人の絵描きに出くわすがここでは会いそうにない。それらの画家に見に来ない理由を尋ねてみたら、別に興味がないからという。奈良は現代の日本でのヒーロー画家だから、色々な意味において見ておくべきだと思うのだが何故だろうか。

 僕は奈良美智の作品を見ながら「これらの作品を日展、二科展と言った公募展に出品したら必ず落選する」と思った。地方の小さなコンクール展に出しても同じだろう。有名審査員を呼んで高いお金を払いたくない主催団体は審査員を身近な公募団体の親分画家にするからだ。では何故これらの団体の親分の審査に問題があるのか。芸術は模倣でなく創造が命である。要は個性が最も大切なのだ。
 それぞれの親分画家達はかつては個性があって認められたとしても、自分のことし分からず他の個性に対する理解に欠ける。その結果自分に似ている作品や時間をかけじっくりうまく描き込んだ作品をよしとする。ほとんどの公募展に行くと、これでもかこれでもかと描き込んだ作品が入選したり賞をもらっている。その考えで奈良美智作品を見ると、もう理解できない。奈良作品だけではない。ピカソもセザンヌも、また草間彌生もオノ・ヨーコも理解の外側にあるに違いない。

 名古屋では大評判の日展だが、その会員達が東京で以前朝倉摂を招いて勉強会を開いたそうだ。その席で朝倉摂が「20世紀の作品で皆さんが一番認める優秀な作品を1点挙げてください」と言ったら、選んだのがほとんど同じ日展の自分の親分画家であったと言う。ピカソの「アビニヨンの娘たち」や「ゲルニカ」、デュシャンの「便器」やアメリカの大芸術家ジャクスン・ポロックではない。日展画家たちは美術の世界を自分たちが属しているそこいらの会社内の世界と同じように思っているのだ。

中日新聞に掲載された記事
 最近の中日新聞に奈良が中学生記者のインタビューに答えた言葉が記事として掲載されているので紹介したい。
写真右:中日新聞より 中学生のインタビューに答える奈良(中央)
「絵は習えばうまくなるけど、みんな同じ絵になっちゃう。みんなとどこが違うかを考えて、自分しか描けない絵を描けばいい。自分しかできないものを探してほしい」

 ではどうして奈良美智がこれだけの評価を受けるようになったのか。勿論それだけの芸術的個性があり魅力があるからなのだが、稚拙だと言うお叱りを承知の上で僕なりの検証をしたいと思う。僕は作家の裏側に興味がありどうしてピカソが、セザンヌが、草間彌生が、オノヨーコが歴史に登場したかが気になり調べている。それらを僕の本『名古屋力・アート編』(ワイズ出版)でも書いている。

 30年程前、僕はマーブルグで個展をすべくドイツに出かけた。帰りに友人が住むデュッセルドルフにも寄り、そこの美術大学(ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミー)を見学した。この美術大学はかつてはデュラーが出て、その後あの現代美術のカリスマ画家であるボイスがこの大学を閉鎖するなどの問題を起こした事でも知られ、また奈良美智の学んだ美大としても有名だ。僕はオープンな雰囲気のこの美術大学の校舎内を見た帰り、門を出て2,30メートル歩いたところで幼稚園の送迎バスに遭遇した。すると僕を見た園児たちが一斉に目を指で引っ張り、細い吊り目にしたのだ。園児たちは「やーい、細い目の頭でっかちの醜い日本人」と叫んでいるように思われた。気分のいいものではない。大人はこんなことしないがきっと家では親たちがこんなことをして日本人を蔑視しているに違いない。だから真似るのだ。僕にとってこの行為は屈辱的で、園児よりその背後の親たちに憤慨したことを思い出す。当時日本は好景気が続き、日の出の勢いでヨーロッパ経済にも進出し、日本人や日本人観光客は街の隅々で目につき、嫌われているだろう存在だった。

 ちょうど奈良がここの大学に在籍していたか、卒業後だったとしてもドイツにいた頃だ。ヨーロッパのあちこちで作品発表をしていたが、まだ今の様に有名ではなかった。作品は頭でっかちで目が細くつりあがった少女画だった。日本人が自虐的に自分らを描いた様な図柄だ。
 もし僕がヨーロッパ人なら、この作品を面白いと評価し、文として取り上げ、また買ったりしていただろう。これに気付いた奈良はさすがだと思う。それとも本能的に無意識に描いてしまったのだろうか。アメリカでウォホールがトマト缶を刷ったり、モンローやプレスリーと言った一見軽薄な作品を創るのに似ているような気がする。まあ奈良作品より自虐的ではないが。
写真下左:The Girl with the Knife in Her Hand (1991)   写真左:Hyper enough (1997)
The Girl with the Knife in Her Hand  Hyper enough
 
 日本でもその少しあとから美術雑誌等で奈良の評判が載るようになった。「ヨーロッパでものすごく受けていて、売れている」と。その評判を知った日本の女子高生の間で奈良の絵は大人気になり、彼の個展は少女たちであふれたという。それだけでなく奈良は人間性にも優れ、人から来たメールや手紙には女学生であっても必ず返事を書いていたという。彼を慕うものが駅に着いてアトリエ訪問をしたいと言う電話を受けると車で迎えに行ったとも何かの雑誌で読んだことがある。絵だけでなく彼の行動の全てが好かれ認められる条件をクリアしている訳だ。

 ところで僕はこの展覧会で2つの不満がある。1つ目は、初期の絵に描かれた細めの吊り目が年を経るにあたってだんだん大きくなり、吊り目はだんだん下がり、衣服にはカラフルな色が入り出したことだ。この方が一般的にはより好まれるであろうが、最初の頃の鮮烈さが無くなって来たとと僕は感じる。初期の頃のナイフを持ち目の細くつりあがった女の子などリストカットを繰り返す子の様で、かわいい中にすごみがあった。

写真下左:Midnight Truth (2017)  写真下右:Lady Midnight (2017)
2000年以降の作品2 2000年以降の作品1

小さな家作品
 もう1点は会場で写真撮影を禁止にしたことだ。アメリカやヨーロッパのほとんどの美術館がカメラOKなのに、何故若者のアイドル的な彼の展覧会で撮影が禁じられているのか。豊田市美術館は近頃カメラOKになり、僕はブログで「さすがこの地をリードする豊田市美術館」と持ち上げていたのに。だから展示場内の写真が取れなくて展示場外の写真しか紹介できないのが残念だ。

写真右:メイン作品の小さな家、中に彼の小物作品が置かれている。会場二階の小窓から隠し撮りした。

中部地方の最高の芸術家、岩田信市氏亡くなる

中部地方の最高の芸術家、岩田信市氏亡くなる

本日8月7日(月) 19時~ お通夜、翌日8月8日(火)1時半 葬儀
吹上愛昇殿・千種区千種通り6-23-1 ℡ 052-571-4444


 謹んでお悔やみ申し上げます。岩田氏に関しては3年ほど前から大腸がんを患っていると聞き、気にしていたが、病に負けたようだ。大きな図体で病気など蹴散らしてしまうような人柄であったが。昨夜高校教師の一人息子から連絡が入った。
石を担いだ岩田氏の息子
 今から45年ほど前、尾張富士の霊祭、石上げ祭りで僕のつくった巨大な張りぼて石を僕の代わりに運び上げてくれたのが当時小学生だったその一人息子だ。
写真右:中央で石を担いでいる少年が岩田氏の息子、左横はゼロ次元のメンバー

 僕はその頃張りぼての石をたくさんを作り、現代美術作品として様々な場所で芸術行為(パフォーマンスアート)をしていた。その一環として尾張富士の石上げ祭りに参加すると話していたら、ゼロ次元(岩田信市が立ち上げた前衛芸術家集団)のメンバーも手伝いたいということで、一緒に参加することになった。そのついでに岩田氏の息子さんも参加したというわけだ。霊祭に張りぼての石を大人の僕が担いだら、神を冒涜するのか、ふざけるなと言って殴られそうであったため小学生だった息子さんに頼んだのだ。

石を運ぶゼロ次元のメンバー
写真左:石を担いで運ぶゼロ次元のメンバーと僕
 ところがゼロ次元のリーダーである岩田氏は当日突然キャンセル、仙台でヨネヤマママコ(パントマイムアーティスト)が企画したアートパフォーマンスに参加するとのことで行ってしまった。60~70年代アメリカのヒッピーの間で流行していた裸で一週間ほど過ごす芸術行為だ。石上げ祭りに息子とともに参加した奥さんはかんかんに怒っていた。


 岩田信市は戦後の愛知で河原温や荒川修作と並ぶトップの芸術家と言っていい。旭丘高校の美術科の頃、同年だった荒川が彼を尊敬し、恐れたとも言われる。高校生であの大須事件にも絡み、また彼は僕と3人(もう一人は元テレビ愛知の副社長)で、例のごみ裁判で原告側で共に闘った仲間だ。日本で最初のストリーキングをしたり、日本の絵画史の1ページにもなったゼロ次元の中心人物でもあった。晩年は大須演芸場でロック歌舞伎を立ち上げこれまた評判となった。
 もし彼が東京か大阪にいたなら、その存在が輝いたであろうが、保守的な名古屋においてはことごとくつぶされたのが残念だ。母一人を置いて出られなかったのであろう。
 先日近藤文雄氏が亡くなり、岩田氏が亡くなった。僕がこの地のよきライバルとして認め尊敬していた二人が去ってしまった。もう名古屋には全国で通用する画家は一人もいない。岩田氏は豪放磊落、人好き合いが下手で、お世辞が言えないタイプだったが、人を妬んだり陥れたりするようなところが全くない人柄だった。静かに別れをしたいと思う。
 彼の芸術活動を示す写真を載せたい。若い人達でアートの分かる人なら名古屋地方の人でも、この作品を見て彼の業績を理解してもらえると思う。ルネサンスで芸術が開放的になり、絵画に裸体画があふれたように、1960年代は戦後の復興時期で文化芸術が従来の因習から解放され、芸術活動にも肉体の開放が叫ばれたのだ。とはいうものの日本ではまだまだ奇異な目で見られていた頃、名古屋からそれを発信したのだ。しかも50年以上前にやっている。岩田の先進的な行動力がわかる。

ゼロ次元のアートパフォーマンス
 この岩田の芸術行為は1972年に発売された講談社『現代の美術』全集の11巻「行為に掛ける」に草間彌生や関西の具体美術家、外国ではデュシャン、クリストらの芸術行為と並んで掲載されている。
写真右:講談社『現代の美術』全集の11巻「行為に掛ける」に掲載されたゼロ次元のアートパフォーマンス

草間彌生ニューヨークでのアートパフォーマンス
写真左:講談社『現代の美術』全集の11巻「行為に掛ける」に掲載された草間彌生ニューヨークでのアートパフォーマンス
 戦後から現在に至るまで、現代美術の全集刊行はこの講談社のものしか存在しない。それからも分かるように現代美術が最も隆盛を誇ったのは60年代であり、現代美術を総括して語るなら60年代にこそアートの全てが凝縮されていたと言っても過言ではないと僕は思っている。

国立国際美術館でブリューゲルの『バベルの塔』を見る

国立国際美術館でブリューゲルの『バベルの塔』を見る

バベルの塔展パンフ

 ブリューゲル作『バベルの塔』を見に、大阪の国立国際美術館へ行ってきた。内覧会への招待参加だったため、一般の公開のように込んでおらず、『バベルの塔』の絵の前で5分ほど落ち着いてじっくりと観ることができた。あの壮大なバベルの塔を描いたこの絵は、一般の予想に反してかなり小さくサイズは59.9×74.6cmしかない。こんな小さな画面の中に壮大なスケールの構図と細部の緻密な描写を見事に融合して描いている。地平線まで見渡す風景をバックに聳え立つ巨塔、その中に建築現場や港、そこに寄港する帆船、働く人々など米粒より小さな人々が1400人も描かれているのだ。もちろん数えたわけではなく解説で知った。      

 1か月ほど前にもNHKの日曜美術館で『バベルの塔』の特集があり、それも見た。テレビでは細かい部分をクローズアップしてくれていた。凄いのはクローズアップしても全く鑑賞に耐えうる筆致だったことだ。想像を絶するほど緻密に描かれたディテールの正確な描写は驚き以外の何物でもない。実物を見てもそれは実感でき、全体の構図の素晴らしさも実感できた。やはり実物は一見の価値がある。

 実はブリューゲル(1526?~1569)は僕の大好きな作家の一人で大学の2年の折には、もう彼の作風を真似て描いていた。と言ってもその時に僕が惹かれたのは『バベルの塔』作品ではなく、彼の中期の作品で化け物か怪物かといったような実在しない異形の生物が描かれた作品である。

写真下:ブリューゲル作「冥府に下るキリスト」より部分
ブリューゲル作冥府に下るキリストより部分 ブリューゲル作冥府に下るキリストより部分 (2)


 僕が今やっている妖怪画のルーツはここにあったともいえる。顔と腕だけの人間だったり、自分の背中に自分で剣を通したりと僕の50年以上前の餓鬼草紙シリーズに似ている。このような絵は人間の思考の原点だから、時代を越えて存在し続けると僕は考えている。そしてそれは「人間とは?」「生きるとは?」という人間の本質に対する問いにつながる。

写真下左:ブリューゲル作『大食」より部分  
右:ブリューゲルの絵からヒントをもらった僕の金シャチ妖怪

ブリューゲル作大食より部分 金シャチ妖怪

 今回の目玉作品『バベルの塔』は僕が惹かれた妖怪画とは画風が違っている。僕はこの絵を見て、ブリューゲルは自分の絵画人生の集大成としてこの絵を描いたのではないか、言い換えるなら画家として人生に挑戦し続けるのをやめたのではないか、さらに言えば死の準備に入ったのではないかと思った。
 多くの画家は創ることに疲れ人生の終着を意識すると、終活として数百万円もする自作全画集を作ることが多い。だが僕の周辺では画集を作った後、彼らは数年でほとんどが亡くなっているような気がする。自作画集を作り出版してしまえば、もうこれ以上作品を新しく描いても画集に入れることはできず、結局何もせず死を待つだけとなるのだろう。
 『バベルの塔』は画集ではないけれど聖書の逸話をテーマとして、ものすごい入れ込みようで描いているから、僕には人生の最後を飾る全集のように感じられたわけだ。実はブリューゲルは今回展示されたものの5年ほど前に、もう1つ同じタイトルで『バベルの塔』を描いている。こちらは今回の作品の4倍程の大きさで、画面はより明るい色調だ。塔はまだ完成途中である。もちろん今回展示された作品も塔は未完成だ。あまりに高い塔を造ろうとした人間の奢りが神の怒りにふれ、塔は完成できなかったからだ。それでも5年後に描かれた今回の作品はより完成に近づいている。調べてみるとブリューゲルはこの『バベルの塔』を完成(1568年)した翌年に亡くなっている。僕の感が当たったわけだ。

 「それで山彊先生は未だに全画集を出さないのですね」。そう。まだやりたいことは一杯ある。1、2年後にはこの地方の妖怪画集をまず出すし、ルーブル美術館で展覧会もしたいと思っている。終活なんてやってるひまはない。

画集「わの会の眼」
 僕の作品発表は僕がやらなくても周りが勝手にやってくれるかもしれない。他人がやってくれることは僕の生きる意欲が湧くし、うれしいから元気が出る。というのも実は先日名古屋画廊の中山さんから『わの会の眼』(写真右)という画集が送られてきたからだ。この本は国中の画商やコレクターが自分の手持ちで好きな、売り出したい作品を1,2点選んで持ち寄り1冊の本に載せたものだ。名古屋画廊は僕だけに絞って2点を文章付きで載せてくれている。これはすごくうれしい。その1点が僕の50数年前のブリューゲルに似た妖怪画であったのだ。そんなわけで自分で全集を出す気持ちはまだない。


写真下:『わの会の眼』に紹介された僕の作品と解説
紹介された僕の作品1 紹介された僕の作品2

 ところで国立国際美術館の内覧会だが、ここ大阪では5時半から始まり、会場へ入ったらすぐ自由に作品を鑑賞できる。式典は暫くしてから始まる。作品を観ていたい人はそのまま展示会場にいてもいいし、式典に参加してもよい。サンドイッチ等軽食が用意されているので、口が乾いたり小腹がすいていれば式典の方に行けばいい。僕は早めに観賞を終え、式典に参加した。朝日新聞主催でまあまあの食べ物であった。名古屋の場合はなにも出ないし、式典は3時から始まり5時には終わる。職員の勤務時間が優先で大阪のように見学者優先にはならないのだろう。このあたりも文化に対する行政側の姿勢の違いが感じられる。


幻となった父娘「神奈川県美術展」同時入賞

幻となった父娘「神奈川県美術展」同時入賞

神奈川県美術展パンフ
 僕の娘は神奈川県に住んでいて、そこで働いている。先々月のゴールデンウィークに孫を連れてやって来て「来年から育児休暇を終え職場に復帰するともう絵を描いている余裕がなくなる。最後のチャレンジとして神奈川県美術展に出したい」と言ってきた。写真右:神奈川県美術展パンフ

 神奈川県美術展は昨年から全国公募になり、大賞賞金も200万円になった。かなりレベルが上がる筈だ。全国コンクールになるまで娘は数回入選をしている。「お父さんと一緒に出せば賞は取れなくても父娘同時入選、ひょっとすれば同時入賞で(こちらはもう冗談)マスコミが取り上げるかも」とも言われ、そうか、そういう面白さもあるなと思い40年ぶりぐらいでコンクールに出してみた。もう賞は関係ないとしても、自分の作品が今の若者たちの作品に交じって展示されてどう戦えるかを見たかったこともあり、2年前に描いた妖怪画の半分を切って150号にして出品した。
 結果、僕は入選したけれど娘は落ちてしまった。ここで父娘同時入賞or入選が幻となった。

写真下左:僕の作品(一番左) 150号が小さく見える。みな大きな作品ばかりで運搬や保存が大変だろう。
写真下右:自作の前の僕。2年前に描いた作品だ。まあこの作品なら若い画家たちとも十分に戦えると思っている。

僕の作品(一番左) 自作の前で
 
会場風景
写真右:美術展会場風景
 神奈川県美術展は、今日本の美術コンクールの中で一番レベルの高い美術展の一つではないだろうか。このコンクールは外国の美術展や日本の大きな美術展がそうであるように洋画、日本画、版画、彫刻、等を区別せずにそれらをまとめて一つの「平面立体」部門の美術作品として審査をするのだ。(全部で4部門があり、他は工芸、書、写真だ)こうなると創造性に乏しい日本画等の伝統芸術は他の作品と勝負できず、100点弱の入選中2点程しか入っていなかった。他のファイバー(織物)アートやキネティック(電気)アートといったものも見本として1点が入っているにすぎなかった。版画も小さくて見ごたえがなく3点程の入選だった。
 その中に僕の版画教室の生徒が一人っていた。彼女は今年、春陽展で大賞をもらい、世界で一番入選がむつかしいと言われる高知国際版画トリエンナーレにも今年入選した。版画のレベルは日本が世界で一番と言えるので日本で一番ということは世界で一番ということになる。その日本でもかつては東京国際版画ビエンナーレ、和歌山国際版画ビエンナーレ(1985年の第一回和歌山国際版画ビエンナーレ展で僕は大賞を受賞した)という世界に通用する版画展があったが、それらがなくなって今は高知国際版画トリエンナーレが難関の版画展として残っている。
 この高知国際版画トリエンナーレには彼女以外に3人、僕の教室の生徒が入っている。「山田教室は何故次々と賞を取る版画家を輩出しているのですか」といった質問をよく受ける。それは皆さんやる気ある人が多いからだ。けれど僕の教えることも少し影響しているかもしれない。いろんな美術教室で教えるほとんどの先生は自分の作品の真似をさせるだけの人が多い。もしその先生のレベルが大したことがない場合、生徒はそれを越えられないのでどうしようもない。私は人のやっていない技法を紹介し、芸術は模倣でなく創造であると言う当たり前のことを教えているだけなのだ。

 ところで神奈川県美術展だがこの創造の精神で審査が行われていると言ってよい。凄くうまいけれどどこかで誰かがやっていたと思われるものはほとんど入っていなかった。下手だけれど可能性があり自分の世界を持っている作品や超個性豊かなものが入っていた。

大賞作品 準大賞作品
写真上左:大賞作品(小学生が描いた様な作品だ。僕は斬新で面白いと思う。けれど名古屋のほとんどの画家は美術の最先端の動向を勉強しようとしないからこの受賞に同意できず戸惑うだろう)
写真上右:準大賞作品(2メートルほどの大きさで誰かの真似をしたものではない。これも一般の彫刻家は理解不能だろう)


 ここでの大賞作品や準大賞作品などは、もし日展、二科展と言った公募展に応募していたら真っ先に落とされるだろう。逆に日展や二科展等公募展の作家はこのコンクールでは誰も入選しないであろう。僕の娘の作品はかなりうまく公募展なら賞を取っただろうが、このコンクールではいまいち個性に欠け、選を逃したと思われる。普通の美術展、あるいは地方の美術展ならこれで文句なく入選だが。神奈川県美術展を甘く見た。

写真:会場内の作品群
下左:牛の彫刻(製作費だけでも100万円はするのではないか)
下右:額縁にボロ?布を巻いた作品

牛の彫刻 額縁に布を巻いた作品

1960年代、世界的な芸術の新しい波が押し寄せ、日本でも現代美術の革命が興った。次々と新しいアートが生まれ、ヒーローアーティストが現れたが、今はそれらのアイデアを焼き直して使い、うまくまとめて描くだけになっている。その停滞に気付いた若い芸術家やその関係者たちがこれからの新しい美術の歴史を創っていくのではないか。その変化の片鱗をこの美術展で垣間見た気がした。

大きなおにぎりのような石の彫刻作品
写真左:大きなおにぎりのような石の彫刻作品
カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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