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『京都・妖怪三十六景』画集にチャレンジ

『京都・妖怪三十六景』画集にチャレンジ

 先日(2018,10,30)『名古屋・妖怪三十六景』画集の出版を終えた。暫くは自分の作品制作に専念しようと150号のキャンバス作りに取り掛かったそんな折、鎌倉に住まわれる美術史家の辻惟雄さん(名古屋生まれ)から激励のお便りをいただいた。辻さんはあの若冲を蒐集していたジョー・プライスとも交流があり、奇想の画家若冲の一大ブームを巻き起こした超有名人だ。江戸の美術史の研究では彼を越える人はいないとも言われている。その人から『名古屋・妖怪三十六景』を読んで「小生より6歳下とは思えない若々しさと多彩さを備えたイメージの数々を楽しませていただき・・・」と信じられない言葉をいただき、僕は作品作りを中止してしまった。この勢いで『京都・妖怪三十六景』の画集作りにすぐにでも入ろうという気になったのである。のんびり構えている時間はない。京都はお寺の数だけでもコンビニを上回り、各寺にはまた信じられない数の歴史が語りつがれている。研究者だけでもものすごい数で僕などが入り込む隙間はなく、『名古屋・妖怪三十六景』の閉じるにあたっての文中で、「次回は京都をやりたい」と記したけれど、半ばビビってしばらくはもともと自分がやっている現代アート作品作りをと思っていたのだった。

 京都の歴史的な妖怪に関しては数えられないほどの文や絵が研究、発表されている。そんな中、僕が少し安心したのは、江戸時代の妖怪絵の焼き直しは明治以後結構多いが、独自の視点で絵画による妖怪分野を切り開いた人は、全国的に見ても水木しげるさんぐらいしかいないからだ。その水木さんは漫画的なうまさ、つまり何枚もの絵が連続するストーリーやキャラクター的な面白さはあっても、一枚の絵画が放つ恐怖、ユーモア、風刺などの印象を描くことはやや弱いという気がする。そこをつけば僕にもどうにかなるのではと考えてチャレンジすることにしたのだ。

晴明神社
 そこで大量の本を購入し京都妖怪の検証に入った。まず気になったのが最近人気を集めている安倍晴明神社だった。
写真右:晴明神社、家紋の五芒星が見える
 その吸引性は何なのだろうか。安倍晴明神社は元々そこに晴明の自宅があり、それは御所の鬼門の位置に建っていた。僕の生家も名古屋城からの鬼門の位置で晴明宅と御所からの距離と等距離に当たり、何か因縁を感じた。京都の妖怪話は今の若者の人気にあやかって、ここから始めると次への展開がやりやすいと思われた。

 僕の周囲の皆さんからは僕が妖怪画を描いたり妖怪関連の本を書いたりし、さらに次から次へと外国へ行ったり個展をしたりして年齢不相応な行動をしているので、「私が知る限りあなたが一番の妖怪です」と言われる。なら、平成の陰陽師になってみよう。晴明は式神を操って様々な怨霊と戦ったが、僕にとっての式神はアートかもしれない。僕がこれまでしてきたアート行為、風景画、妖怪画、版画はもちろん抽象画も、はたまたヒマラヤに登り、そこにある地獄の門を守ると言われる鬼にセンズリ用のポルノ写真を岩肌に転写してくるなどたくさんのアートパフォーマンスも、多くの式神を操ってできたことかもしれない。
 
妖怪ストリートの今年のポスター
 さらに僕を引き付けたのはその近くにある、かつての百鬼夜行の通り道であった商店街が、今百鬼夜行の妖怪で町興しをやろうとしているのを聞きつけたことだった。

写真左:京都大将軍商店街、妖怪ストリートの今年のポスター
 名古屋の大須を化け猫や妖怪話で町興しをしようとしている僕にとって、百鬼夜行で町興しを狙う京都の大将軍商店街は調べる必要があると考え、早速先日訪れてみた。この地は妖怪話を盛り上げるための全ての条件が揃っている。かつて平安の人々を震え上がらせた百鬼夜行の通りが本当に存在するなんてすごくインパクトのある話だ。水木しげるの境港なんて目ではない。

 京都にあって安倍晴明神社の近くでもあり、しかも歩いて5分ほどのところにあの菅原道真の北野天満宮もある。道真も怨霊となって京の町に雷を落としたり、宿敵藤原時平に祟って死に至らしめたというから、京都は昔から怨霊だらけだ。
 これまでニューヨークやサンクトペテルブルグ、パリ、そして今年のハロウィーンには栄のプロムナードに出現した我らが妖怪軍団の女性達と来年のイベントにここ出現してみてもいい。

写真下左:大将軍商店街に置かれている妖怪  右:北野天満宮の入口
大将軍商店街の妖怪 北野天満宮 
 そんなわけでこの画集はまず安倍晴明から描き始めることにした。今回進める『京都・妖怪三十六景』画集は3年から5年のうちに出す計画だが妖怪がどのような邪魔をするか読めないから、はっきりしていない。80歳になって今さらと思われるかもしれないが北斎があの『神奈川沖波裏』を描いたのが73歳で、80歳になってからも幾度も小布施に出かけ祭屋台の天井絵(86歳)や岩松院の鳳凰図(88歳)を描いている。まだまだ北斎には負けられない。人生50年だった江戸と現代では20〜30歳の開きがある。当時の80歳は100歳に当たるのではなか。とするとあと20年はある。

 先日京都へ行った折、ものすごい数の外国人を見た。数年後はもっと増えるであろう。彼らが妖怪についてどんな反応を示すか、できれば英訳も妖怪画集に付けたいとも思っている。
 余談だが、教え子から電話があり「山彊先生、図書館で『名古屋・妖怪三十六景』を借りようと思い調べたら名古屋市のどの図書館にも購入されているが全て借り出し中でした。すごい人気ですね」と連絡を受けた。これも嬉しいことだ。益々次の本に対してやる気が湧いてきた。



① 妖怪・安倍晴明

 安倍晴明は平安時代の宮廷の陰陽寮の役人で天体を観測し、占いや祈祷をする陰陽師の一人だ。一説では父親の安倍益材が狐を助け、そのお返しで狐が美女に化けて益材に近付き産んだ子が晴明とも言われる。晴明はその母から鳥獣の声を聴ける技を習得し、幾多の妖術合戦に勝利したり、悪霊を調伏して人命を救ったりして名声を得、当代随一の陰陽師となる。

不動利益縁起絵巻
 晴明が行ったことの一つに三井寺の高僧の話がある。高僧の智興が重病になった折、晴明は泰山府君の儀式を行い、「誰か身代わりになれば治るかもしれない」と告げる。身代わりを申し出た弟子は、その心意気に感銘を受けた不動明王によって命を救われる。これらのことで晴明の名声はますます高まる。
写真右:「不動利益縁起絵巻」 晴明(右端)の左後ろに2匹の式神が控えている。

 晴明がこの時代に85歳まで生きたのは、疫病鬼を撃退し人の寿命も操る泰山府君のおかげだろうか。彼は陰陽道の最高奥義「泰山府君の祭」の秘儀の創始者とも言われている。
 また家紋は火、水、木、金、土の5元素から取った五芒星で晴明は影武者である式神を操ってことを成就する。式神とは人には見ることができなくて、晴明の手先となって働く、透明で小ぶりの精霊という存在だ。清明の操り人形のようなものか。

 僕の創作した「妖怪・安倍晴明」は狐火のひげを蓄えた晴明が五芒星から取り出した式神によって数々の奇蹟を起こそうとしているところ。鳥も昆虫も彼は自在に操っている。


① 妖怪・安倍晴明

妖怪・安倍晴明
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佐久島へ廃屋の写生に行こう!

佐久島へ廃屋の写生に行こう!

廃墟になった家屋1
 写実風景画家にとって佐久島は最高だ。考えさせられる美しい(?)廃屋が満載だ。美術展に出してもこの島の廃屋作品はインパクトを与える。廃屋はただの風景でなく住んだ人の歴史を語り、長い年月、風雨に立ち向かい、それでも朽ちざるを得ない運命が見る人にインパクトを与える。
写真右:自然と寄り添うように朽ちてゆく家屋
きれいな甘い風景画はどこにでも見られ、マンネリ化して見る人の心に強烈な印象を与えない。

 今年は僕のカルチャーセンター教室の生徒さんと1泊の写生旅行に佐久島へ出掛けた。この島は交通の便が悪いため、少し行きづらくそのため観光客が多くない。だから無理のない自然が残っていて日間賀や篠島より僕は好きだ。これまで10回程、訪ねている。ジョン万次郎より長く漂流していた船頭重吉の里でもあり、その関係でも数回来ている。村の人が謙虚なのか船頭重吉はちっともメジャーにならない。村の英雄話を語るより島民が仲良く暮らす方を選ぶのであろうか。

 今回と同じメンバーで写生を目的に来るのは9年ぶりだ。僕が写生目的以外に来る折は、島の中心ばかりの滞在であったため島全体の観察はできなかったが、今回は写生のため隅々まで見て回ることができた。そんなこともあったのか写生に来た生徒さん達はすごく感激していた。本当に点在する廃屋が美しいのだ。街の見捨てられた廃屋とは全然違う。それは廃屋になった家の持ち主が最後まで可愛がって住み、遂に老衰で亡くなってやむなく見捨てたからだろうか。その後に子供達は島に戻ることもなく自然に朽ちていったように感じられる。9年前はまだ住民が300人以上いたと聞いたが、現在は100人少々であるという。

 僕の絵画のジャンルは現代美術で、風景は大学以来気分直しで描いているぐらいだ。世界のアート界を相手に闘おうとするには、風景画では見向きもされない。日展系の作家が世界で全然評価されないことでも分かる。まあ歴史に残るためのアートと違って、のんびりと客観的に見て描けばいいから、それはそれで僕は嫌いではない。少し気を抜いて描けるからリラックスした気分で描ける。難解な現代美術よりも自分の周囲の皆さんには喜んでもらえる。

廃墟になった建物  廃墟になった家屋2
写真:廃墟と化した建物 左は絵になると思う廃墟。右は描きたくないと思う廃墟(何故描きたくないか見ていただければわかると思う。)

松越しに海が広がる風景
 だがここ佐久島の廃屋は外国人には評判がいいというが、一般の日本人には向かないかもしれない。だが画家の修行にとって誰でもが描く一般の舞台背景みたいな風景画は金太郎あめを作る様で勉強にならない。専門家が風景画として評価するのは廃屋の様な作品だと思う。生徒さんもだんだんわかってきて廃屋の景色に感激したのだ。
写真右:松越しに海が広がる舞台の背景のような風景。今の画家でこのような風景を描きたくなったらプロではないと思う。誰でもが見つける場所なんて描いても意味がない。自分だけが見つけた場所、それを描くのがアートだと思う。アートは創造だから。

 さて美術以外での佐久島の感想だが彼女とのデートで来ると楽しいと思える。10年ほど前に島おこしで現代美術の島として注目を集め、あちらこちらに美術作品が点在している。自転車道が整備されていて車も少なく愛をささやくにはいいところだと思う。現代美術の若い連中がここでイベントをやっていて自然だけでなくアートについて語らうこともできる。恋人たちのために細かい気配りもなされている。

お昼寝ハウス
 「お昼寝ハウス」というアート作品のスペースには一人では広すぎるし二人なら引っ付かねばならない。生徒の誰かが「ここで愛を告白するといいね」と言っていた。「中に入って昼寝をすれば体が自然にふれあい愛の言葉も出やすい」とも。70歳を過ぎても口説きの感情が彼には備わっていて、さすが僕の生徒だと思った。僕も若かったらここで愛をささやいてみたい。この地は画家のダリが描くような形の石が多くあって、そのこともあったのか石にメッセージを書いて奉納するとその願いが成就するという神社もある。これは数年前に芸術家が考えたアイデアなのだ。歩いて行くとたくさんの猫に遭遇する。人は亡くなるだけで若い人はでていくが、猫は島から出ることもできず今は人間より数は多いのではないか。これもデート中彼女の気分をほぐして恋がささやけるかもしれない。
写真上:現代美術作品「お昼寝ハウス」

玄関先にたむろする猫たち
 ピカソが21歳の折フェルナンドという美女を口説くとき猫を使っているから成功するかも。ピカソがモンマルトルの丘の安アパートにいる折、突然の雨で駆け込んできた美女に、彼が抱いていた猫を抱かせたら恋が始まってしまったという。猫は女性にとって何か意味があるかもしれない。この島へいったら猫を捕まえて彼女に抱かせてみたらどうだろうか。人なつっこいからいつでも抱いてやれる。
 朽ちてゆく人間の住家と雄大な自然の風景と猫の島、佐久島の自然は僕等に何かを考えさせてくれる。
写真右:玄関先にたむろする猫たち


 ところで別件だが中日新聞が毎年松坂屋南館8階で開いている「郷土の美術家100人展」の助け合いチャリティーに僕の風景画が展示されるので見ていただけたら嬉しい。期間は12月4日〜5日の間、今回出している作品は昨年出掛けたロシアのサンクトペテルブルグの運河を描いたものだ。
郷土の美術科100人展




安田純平の自己責任騒ぎから 僕のパプアニューギニア一人旅を再考

安田純平の自己責任騒ぎから
僕のパプアニューギニア一人旅を再考


 ジャーナリストの安田さんが無事帰国して又自己責任論で叩かれている。沢田教一などの戦場カメラマン、植村直己など数々の冒険家、古くは間宮林蔵、川口慧海等の探検家、彼らは生命の危険を感じながらも前人未到の地や危険な場所に出かけている。彼らに事件が起きた場合、人々はどう反応するだろうか。

 考えるに3つの場合がある。1つは彼等が成功して帰ってきた場合、彼らは英雄視され、歓迎されるだろう。2つ目は惜しくも命を落とした場合は、今までの業績がある人は英雄視され、その死を悼まれるだろう。3つ目は拉致されたりして今回のように人質になった場合である。こうなると政府が動き、大ニュースになる。身代金が払われるとなると、バッシングの始まりで「勝手に危険なところに行って」と自己責任論が沸騰する。しかし上記の3つの区別は本人の人間としての資質や人格とは関係がない。1つ目は運が良かった、2つ目と3つ目は運が悪かった、それだけのことだ。

 冒険家たちは自己の夢の追求だけかもしれないが、ジャーナリストやカメラマンは、世界中の弱者や見捨てられた人々に世界の人々の目を向けさせ、救援する方向へ持って行きたいという使命感から危険な地域にも行く。彼等だってプロだから危険を察知し避けてきたはずだ。ただ人間、運に見放される時もある。
 危険な地域など行きたくないというカメラマンやジャーナリストばかりだったら、我々は安全な地域や裕福な人々を知るばかりで、平等な目で世界の情勢を知ることができない。自己責任という批判にさらされるのを覚悟で安田さんのように身を危険にさらしても報道する人々が人類全体の平和に大いに貢献しているのだと思う。

 ところで僕も今まで危険と言われているたくさんの地を調査取材などで訪れている。そこで何らかのトラブルに巻き込まれても、自己責任であり仕方がないと覚悟して出掛けていた。ただ僕はやみくもに行くのではなくそれなりの準備は常にして行ったつもりだ。過激派なりギャングに捕まった場合、身代金で当時の僕が出せる最大限のお金、2千万円をすぐに銀行から出せるよう準備しておいた。又出掛ける地については半年かけて必ず下調べをしてから出かけた。
 これまで僕は50か国以上の国へ一人で出掛けている。その都度、危険にさらされている。旅行中は緊張の連続で少しも楽しくない。だがそれをクリアして帰って来るのが旅の一番の醍醐味だ。今日こうして文が書けるし、講演でも僕の旅の話はおもしろいスパイスになる。

 その危険な旅を何とか切り抜けた1つの例として、僕が62歳の時に行ったパプアニューギニアでの出来事のほんの一部を書かせていただく。
 
 オーストラリアのケアンズからパプアニューギニアの首都であるポートモレスビーへ、そこからぼろいプロペラ機で奥地の町ラエに飛びそこで一泊、そして車でさらに奥地の部落ゴルカ(年に一度昔からの風習に従った部族の祭りがある)に入り、後は地元で信頼できる(?)案内人を見つけジャングルヘ入る予定だった。ここではどんなアート作品が創られ、どんな家族体系や性文化が残っているかを調べたかった。

 まず最初の誤算はポートモレスビーから乗り換えていくプロペラ機フライトが、2時間遅れで午後9時ラエに着くのが分かったことだ。明るいうちの午後7時に着く予定だったのでどうにかホテルも探せると思って予定を組んでいた。僻地のため日本からホテルの予約はできなかった。何とか探すつもりだが、無理だったら空港で一晩明かせばいいとも思った。しかし飛行機が午後9時に着くことが分かった段階で万が一の場合を想定して、無事にホテルまで着く手を僕は考え始めた。プロペラ機の中の乗客はすべて大きな黒人ばかりで英語も通じそうにない。(どうせ僕は片言英語しか話せないからあまり関係ないが)。考えたのは、この乗客の中で信用のおける男を見つけることだった。そう思って斜め後ろを見るとひとりだけパソコンを打っている男がいた。ちょうど前から乗務員が紅茶のサービスに来ている。パソコンを打っている男のテーブルにはカップが置けない。僕はとっさに乗務員に彼の分も僕のテーブルにおいていくよう指示をして、パソコンの手が止んだ折、「はいどうぞ」とティーカップをその男に渡した。挨拶の後、すぐに僕の名刺を渡し自己紹介をした。彼もくれた。なんと彼はこれから行く町の警察署の副所長であったのだ。助かったと内心小躍りした。

 ラエの空港に着いたとき、僕は自分の打った手と幸運に再感激した。ラエは超危険な町でギャングが出没するから午後5時には外出禁止令が出て通りに人はいなくなるのだ。それにジャングルの中にある空港(と言えるかどうか怪しい)はほったて小屋があるだけで窓もなくがらんとしている。人は誰もいない。空港(?)にはバスもタクシーも待っていなくて乗ってきた10数人の客は、各部落から迎えに来ているらしい仲間の軽トラックで去っていく。この時間帯は既に午後9時を過ぎているから何時ギャングが出てもおかしくない。乗ってきた飛行機はプロペラも止めず我々を降ろしたら襲われないよう逃げるように飛んでいく。副所長にも迎えのトラックが来ており、僕はそれに乗せてもらい、さらに彼は町の安全なホテル等も全て僕のために手配してくれた。僕らの乗ったトラックはギャングの襲撃を防ぐため、4台が隊列を組んで50キロあるジャングル道を猛スピードで駆け抜けた。

ラエの町の市場
 僕の事前の調べでは空港は町のど真ん中にあった筈だった。どうも2,3年前に移動したらしい。旅行案内書には何も書いてなかった。
写真右:ラエの町の市場、かつては空港だった
 こんなこと事前に分かっていたら乗ってきた飛行機で僕はそのままポートモレスビーまで引き返していただろう。今までの危険な旅で僕が生き残れたのは偶然もあるが、事前に手を打っていく用心深さがあったからではないか。
 
ゴルカへ向かうバス内で
 2日程ラエに滞在してから次の目的地ゴルカへバスで向かうことにした。バスは定員が満杯になったら出発するから朝の6時にはバス小屋へ。3時間待って、それでも運よく9時には満杯となり出発となった。
写真左:バス内の乗客、満員だったがカメラを向けると気さくに笑ってくれた。右端に一部みえるのは僕

 夕方4時ごろゴルカの町に到着したら、翌日はジャングルの奥地の村へ入らねばならない。どこと決めているわけではない。奥であればあるほどいいのだ。お金を出してガイドを雇うことも考えたがこれは危険だ。どんな人間が来るのか事前に把握できない。お金も10万円はかかるという。全滞在費がそれぐらいなのにとんでもない。そこでまたバスの中で善良そうな村人を探すことにした。
 
 まず小さなぼろバスの20人程の乗客に日本から持ち込んだキャンデーを配った。乗客は大うれしだ。そのこともあり、降りる時に払うバス代も運転手は500円だと言ったが、乗客が交渉して原住民並みの100円以下にしてしまった。バス内には幼児連れの乗客もいた。ここで僕のジャングル行きの方法が決まった。僕はカメラを出しその子を映し写真を日本から送ってやるから住所を教えてほしいと頼んだ。何と僕が狙っていた奥地の村の住民だった。
 そこですぐさま「あなたには両親がいるだろう。よかったらついでに彼等の写真も撮って送ってあげるよ。あなたの家に連れていってほしい」と頼んだ。彼はすごく喜び翌朝迎えに行くと言った。けれど彼が気が変わって襲う可能性もなくはない。ここはその昔、人食いの村と言われていたのだ。そこで僕はバスの乗客全員に向かって「明日彼の両親の写真を取りに彼の村へ行く」と大声で叫んでおいた。これで僕の行動予定は乗客に知られ、彼が悪人だったとしても何もできないと踏んだわけだ。翌朝にこにこした彼の顔がホテルの前にあった時はほっとした。
写真下:彼に案内された部落で。左は彼の家族、右は彼の母と妹、その真ん中は僕。 写真下:この部落で一番の美少女だから写真に撮れと男達に言われて撮った少女
彼の家族 彼の母と妹と一緒に
村で一番の美少女

 しかしその前夜また別の試練があった。僕はホテルでギャングの襲撃を受けたのだ。彼らは僕の部屋のドアをノックして「警察だ。パスポートを見せよ」と言ってきた。おかしいと思った僕は部屋の電話でフロントに確かめた。フロントはギャングだから空けてはいけないという。ドアにテーブルや椅子あるもの何でも立てかけ、トイレに身を隠し、震えながら助けを待った。2~3時間過ぎた頃ようやくドアの前が静かになった。生きた心地がしなかった。フロントには2人の銃を持ったガードマンがいたが、遂に助けに来なかった。ガードマンはフロントを守ったのだろう。自分のことは自分で守らなければならないのだ。どんな危険に陥っても、僕は常に切り抜けるための手を考える。安田さんもそうやって苛酷な日々を生き延びてきたのだろう。その強靭な精神力に拍手を送りたい。

ポートモレスビーの水上市場
 「ところで帰りはどうしたのですか?」。帰りは心配したホテルのオーナーが偶然泊まっていたタイガービールの現地の支社長を紹介してくれて、彼と彼の部下に同行しポートモレスビーまで帰ることができた。助けに来なかったことのお詫びかもしれない。支社長は途中車窓に見える海上魚市場を指さし「間違ってもあそこには行ってはいけない。たくさんの外国人か襲われている」と教えてくれた。
写真右:ポートモレスビーの水上魚市場

でもそういわれると益々行きたくなるものだ。彼と別れた翌日、勿論僕は一人で魚市場を訪れた。
写真下:魚市場で売られているカラフルな魚
魚市場で売られているカラフルな魚

 「そんな危険をなぜ冒すの?」との疑問はあるであろう。答えは人生は挑戦だからだ。僕に限って言えばただのんびり生きていくことや、或いは周囲に気を使い縮こまって生きていく自分に我慢できない。「アートをやってるじゃない」と言われるかもしれない。アートは勿論誰よりも真剣にやっているつもりだ。僕は常に新しいアートに挑戦している。人生も然り。僕は死ぬまで人生に挑戦し続けたいと思っている。



『名古屋・妖怪三十六景』 山田彊一著 発売

『名古屋・妖怪三十六景』 山田彊一著 発売

 10月30日、ハロウィーンの前日に僕の画集『名古屋・妖怪三十六景』(写真下、左表表紙、右裏表紙)が店頭に並ぶ予定だ。

名古屋・妖怪三十六景表紙 名古屋・妖怪三十六景裏表紙

 今回は今まで以上にいい本が出来たと僕は自負している。全編カラーでお金もかかり出版元も気にしていたけれど、老舗のワイズ出版の社長は出来上がりを見て自信ありげだった。「名古屋物だから売れる範囲が限定されるのではありませんか」という危惧もある様だが、それは間違い。先回の『名古屋力・妖怪篇』が一時アマゾンの全国物の中でベスト20位内に入ったことでも分かるように、名古屋はなぜか不思議な街として今や全国で注目を集めている。

写真下: 『名古屋・妖怪三十六景』より 左:妖怪・坊が坂、右:光友カラス天狗
妖怪・坊が坂 光友カラス天狗

 長いこと料理はまずいと言われていたのに今や名古屋めしという名で全国的に有名になっている。固い保守的な街と言われながら、他都市とは違って妖怪の様な自由人の河村市長がいる。さらに名古屋人はケチと言われながらも日本経済を引っ張るあのトヨタのおひざ元でもある。そんな不思議いっぱいの街だから妖怪が誕生しても違和感はない。これまでの名古屋人は妖怪なんて子供やその道のオタクが好むもので、学者や、大芸術家が研究の対象にするなんて恥ずかしいと思っていたようだが、名古屋人はもっと自信をもって様々な分野で発表をしてもいいのではないか。

 これまで妖怪画というとほとんどが江戸時代のお岩や番町皿屋敷のお菊、一つ目小僧にろくろく首と言った定番物の焼き直しだった。今年5月、私は河村市長に同行しパリやランスで美術展をし、ついでにパリで開かれている『大妖怪展』も見てきたが、これがまた二流江戸妖怪焼き直しのオンパレードで、斬新さも面白みもないのでインパクトに欠け全くつまらないものだった。

写真下:パリで開かれていた『大妖怪展』の作品
パリ妖怪展作品1 パリ妖怪展作品2

 これを見て僕は自信が湧いてきた。僕は焼き直しでなく、自分で妖怪を探し出し新たに創造した。名古屋原人のひらめきと感性で描いた僕の画集をよかったらぜひ見てください。

 
 この本の「はじめに」の部分に僕がこの画集を出すに至った経緯などが書かれているのでその一部を紹介させていただきたい。

 10年ほど前妖怪に係わるきっかけがあって調べていくと興味が湧いた。僕が特に強くひかれたのはその独創性だ。古くからあるどうということのない伝承話でも、それが妖怪という形あるものに生まれ変わる時には、人々の想像力と創造力がその誕生の源泉となっている。そのクリエイティブな瞬間にアーティストとしての本能が刺激され、自分独自の妖怪を描き出したいという欲望が湧いてきた。そこで僕は独自の妖怪探しにのめり込んだのである。

 まずは地元の名古屋から妖怪話を掘り起こし、僕が創造した妖怪画を挿絵として入れながらまとめたものを、2013年『名古屋力・妖怪篇』(ワイズ出版)として出版した。その後ニューヨークでも妖怪探しをして『妖怪イン・ニューヨーク』として出版し、挿絵として描いた原画(60号サイズを50点)の個展もニューヨークで行った。2冊の妖怪本とも主役は文章で妖怪画は脇役だったが、今回は本業の画家として絵を前面に出した画集にしたいと思ったのがこの本を出すことになった経緯である。初めは別のタイトルを考えていたが、この名古屋で北斎につながる出来事がいろいろ起っていたので、本のタイトルを『名古屋・妖怪三十六景』に変えた。『富嶽三十六景』を描いた偉大なる絵師へのトリビュートとして、36の妖怪画を選ぶことにした。『名古屋力・妖怪篇』からのものが中心だが、新しく見つけ出した妖怪も加え、すべてを畳サイズに大きくアクリル絵の具で描き直した。

写真下: 『名古屋・妖怪三十六景』より 左:妖怪踊念仏、右:大須妖怪ええじゃないか
妖怪踊念仏 大須妖怪ええじゃないか

一般的に妖怪は庶民の間で自然発生的に生まれ、それを僕のような絵描きが勝手に絵や文にして残してきたと言える。僕は新しいこと、まだ誰もやったことのないこと、つまり創造のアートに常に挑戦してきたアーティストだと自負している。だから妖怪画もその延長線で僕独自の解釈と独創性を重視して描いてみた。50年後100年後、江戸の妖怪のように昭和、平成の妖怪として僕の妖怪画が残るだろうか。やってみなければ、描いてみなければ、何も始まらない。



名古屋名物『なごみまん』  大学生の創作饅頭?

名古屋名物『なごみまん』
愛知学院大学と名古屋学芸大学の創作饅頭?

なごみまんの栞
 先日、絵を教えている人から名古屋名物と銘打った饅頭をいただいた。僕の近所にある1935(昭和10)年創業の「御菓子舗おくむら」で購入したものだ。この品は創作饅頭で愛知学院大学が名古屋市北区との包括協定に基づき、おくむら菓子舗、金虎酒造、名古屋学芸大学の協力を得て企画し、意匠登録もした饅頭であると言う。地元の金虎酒造の吟醸酒粕を加えた「尾張名古屋のなごみまん」という饅頭だ。写真右:なごみまんの栞

 創造精神に欠ける名古屋が最近、高校や大学とコラボして新しいことにチャレンジしている。チャレンジ精神で名古屋を盛り上げようとしてくれる学生たちには大いに拍手を送りたい。

写真下:しおりに描かれた説明
なごみまん説明

おくむらで売られているなごみまん
写真左:おくむらで売られている創作饅頭「なごみまん」
 だが包みをあけて落胆した。まず見た目が全然創造的でないのだ。スーパーで売られる鬼饅頭を小さく小山形にして酒粕を入れ作ってあるだけだ。色も市販の鬼饅頭とほとんど変わらない。(鬼饅頭とは小麦粉とさいころ状に切ったサツマイモを混ぜ蒸かした饅頭のことだ。僕の小学校の頃、母がよく作ってくれ自分でも作ったもので、当時は砂糖がなくサッカリンという甘味料で甘さを出していた。この安い素材のふかしイモ饅頭は食糧難の戦後、全国で作られたはずだ。それが名古屋では鬼饅頭と呼ばれた。)さて肝心の創作饅頭の味はと言えば、まずくはないが、現在スーパーや他の菓子鋪で売っているものとあまり変わり映えがしない。ほのかに酒粕の香りはするが特別に美味というわけでもない。

 僕が10月17日に出版する『名古屋・妖怪三十六景』(ワイズ出版)にも詳しく載せているが、戦後皆が食べたこのあまりおいしくもない饅頭を、名古屋人が喜んで食べたのは勿論当時の食糧難によるところが大きいが、その後もずっと続けて食べられているのは、「鬼饅頭」というネーミングにあるのではないかと思う。この饅頭をその材料の安さから貧乏饅頭とでもネーミングしたら名古屋人でも食べないだろう。鬼というと怖いけれどちょっと高貴な感じがして饅頭が高級に思えてくる。そしてこの名前が名古屋地区で定着して今も菓子舗やスーパーでも売られ愛されている。この地ではお酒の「鬼殺し」がよく売れるのに似ている。スーパーに行くとこの銘柄が目立つ。東京や大阪では探すのに苦労する。

 さて、学生たちが創作した饅頭に話を戻すと、上記したように見た目は全然創造性が無い。またおいしそうにも見えないのだ。創作饅頭と銘打ったからには、何かアイデアが欲しい。せっかく若い大学生が考案したのだから、もっと若い子が「おいしそう!」とか「かわいい!」と言って飛びつくような外見にしてほしい。

 次に名古屋の鬼饅頭の歴史を考えたら、看板になる鬼の文字を除き「なごみまん」というネーミングにするのはいかがなものか。これでは売れるわけがない。これを創作したという大学の先生や学生達、何故こんなものを意匠登録までして売れると判断したか僕には理解不能だ。思考レベルが低すぎる。この創作饅頭がこの名古屋で好まれ定着し、数年でも残るなんて考えにくい。「山彊先生言いすぎじゃないの?」名古屋人は何事も相手との摩擦を嫌い、「いいわ、いいわ」で過ごしすぎる。大学の先生が考えたとしてもつまらないものはつまらないのだ。

 まず名前は「なごみまん」とせずに、鬼饅頭の名を生かし「ニュー鬼饅」とか「oniman」にする。外見については午後のコーヒータイムの時間10分ほどを使い僕なりのアレンジで4点程考えてみた。これはいただいた「なごみまん」を使ってトッピングなどをしたものだ。これは僕が例えばこんなものはと思って考えたものだから、若い学生の皆さんはいろいろ最新のアイデアを考えつくことができるだろう。

写真下:僕が考案したニュー鬼饅、又はoniman 上段は春の華やかさと金シャチをイメージしたもの、下段は女の子の鬼と男のの鬼をイメージしたもの
僕が考案した新しい鬼饅頭1 僕が考案した新しい鬼饅頭4

僕が考案した新しい鬼饅頭3 僕が考案した新しい鬼饅頭2

幽霊子育飴
※今回出版する「名古屋・妖怪三十六景」がヒットして、その中での妖怪街道の話が定着したら僕も創作名古屋饅頭にチャレンジしてみたい。お菓子舗おくむらは妖怪街道の直ぐ近くにある店だから妖怪物が売れるだろう。イモを使うなら紫イモを使い妖怪の顔の饅頭にしてみたい。京都には幽霊子育飴本舗があり常にマスコミの話題をさらっている。妖怪饅頭もまず話題を取るだろう。本が大ヒットしてからの話だけど。




カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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