花見と妖怪

花見妖怪

 お花見シーズンも終わり桜は散ってしまった。いつもこの頃になると、一抹の寂しさを僕は覚える。僕もいずれ散って死を迎える。桜と違って散ったらどうなるのだろうか。あの世はあるのだろうか。ある筈ないよね、などといったことを考えてしまう時期でもあるのだ。

岩木山と満開の桜
 以前桜まつり見学を兼ね弘前の友人を訪ねたことがある。彼方に岩木山を望み、咲き誇るソメイヨシノは名古屋で見るお花見なんて問題にならないほど素晴らしかった。写真右:満開の桜の向こうに姿を見せる岩木山
 花びらが乱舞する花群の間から覗く岩木山は仏教でいうあの世の山、須弥山にも思われた。まるで天国の園のようだ。だが須弥山には天国もあれば地獄もあると言われている。とすると地獄はどこにあるのか。

弘前桜まつりお化け屋敷
 この花見に浮かれる僕を驚かせたことがある。桜は岩木山(須弥山)を背景に咲き誇っているのだが、今度はその桜を背景にお化け屋敷の小屋(写真左)が並び建っていたのだ。みたらしやぜんざいを出す茶店ではない。なんと夏祭りに登場するいわゆる「お化け屋敷」なのだ。これが須弥山の地獄なのだろうか。鉢巻をしたお姉さんが客を呼び込み、その後にはろくろ首や生首が並ぶ。
 名古屋人の感覚としてはお花見とお化け屋敷はミスマッチだ。だが弘前の民は桜も待ち遠しいが、化け物屋敷も春を祝う行事として待ち遠しいようなのだ。「山田先生、どうして名古屋のお花見にはお化け屋敷がないのですか」と逆に友人から質問されてしまった。

片山神社の桜
 名古屋辺りでは桜はほとんど散ってしまったが、弘前ではまだこれからだろう。写真右:名古屋の妖怪銀座と言われる尼ケ坂にある片山神社の桜
 ここ数年妖怪にとりつかれて?妖怪画を描いている僕は、僕の妖怪画と弘前のお化け屋敷との不思議な偶然の一致をあの満開の桜とともに思い出したのである。さらにそこから、ひょっとして花見習慣が定着したのと、妖怪話が語られ妖怪画が描かれるようになった時期は同じではなかろうか、つまり花見と妖怪には何か相通じるものがあるのではないだろうかと思い至った。

 では、この花見の習慣はいつから起こったのだろうか。平安前期に嵯峨天皇が催した花見の宴がルーツと言われるが、庶民までが桜見物に浮かれるようになったのは江戸時代からではなかろうか。世の中が平和で落ち着き、ゆとりができると遊び方にも思考が及ぶ。家族うちそろって楽しめる娯楽として花見の習慣が広まった。

北斎百物語之図
 同じ時期、岡場所遊びや賭博に飽きた大棚の旦那衆は平和でさしたる心配もないがゆえに、逆な遊びを考えだす。仲間が集まって恐怖を遊びとして楽しみ始めたのだ。蝋燭を100本立て集まった仲間が怖い話を一つ終えるごとに蝋燭を1本ずつ消していく。いわゆる百物語で、最後に暗闇になると本当のお化けが現れると言われ、その恐怖を人々は楽しんだ。
写真右:北斎百物語之図より

 中国や韓国にはこのような妖怪話がほとんど無い。他国と陸続きの国では何時侵略があるかもしれない。常にそのことに備えねばならない。襲われたらすぐに逃げられるよう金製品をため込んでおく。のんびりと遊ぶ思考はない。島国で社会がまとまっている日本ではそんな恐怖が大陸に比べて少ないゆえに、平和が飽和状態になると逆に恐怖を創り出した。実際に身に危険が及ぶような恐怖ではなく仮想のお化けや妖怪という恐怖だ。人間というのは常に何かの危険に備えたい生き物なのだろう。何もないと自分で作りだすのだ。
 このような理由で江戸の町民文化が栄えた元禄、文化文政の時代に妖怪話がたくさんできた。その頃からお花見も盛んになった。だからお花見と妖怪出現の根は同じで、その陰が妖怪、陽が花見という形をとって現れたのではないかと僕には思われる。

 実は僕が『現代餓鬼草子』というタイトルの妖怪的な絵を描いたのは1962年頃で、これで京都アズマギャラリー記念展の大賞をもらっている。
写真下:現代餓鬼草子シリーズより
現代餓鬼草子

 その後画題はいろいろ変わったが、僕の頭の中には常に生と死の問題が存在しており、2011年頃から再び妖怪に興味を持ち、僕独自のオリジナルな妖怪の絵や文を書き、尾張の妖怪本『名古屋力・妖怪篇』を2013年に出版した。その後僕の妖怪探索&創作は、ニューヨークに飛び妖怪シリーズ2冊目の『妖怪インニューヨーク』を2015年に出版した。この本のために描いた妖怪をさらに大きく描き直し、昨年はニューヨーク個展を開催した。
 ここニューヨークにはハロウィンに代表される様な妖怪はいるが、新しい妖怪はあまり存在しない。今世界情勢は不安定で一触即発の危機が待ち受けているような状態だが、ニューヨークは大国アメリカ最大の都市だから紛争国から見れば平和であり、街がさらに落ち着きを取り戻したら妖怪も出現するだろう。僕のニューヨーク生まれの妖怪がその折のルーツになったらうれしい。そう思って妖怪を創ってみた。

 僕が最初に妖怪を描き始めたのは前述したように1962年、つまり24歳ごろで教師になり生活の安定を得た時だ。尾張の妖怪を描きだした少し後にはテレビで『妖怪ウォッチ』が始まり子供たちに妖怪人気が広まった。『妖怪インニューヨーク』の出版の後には『ポケモンGO』が世界を席巻した。日本の今の妖怪ブームも、ひょっとすると経済優先の政策をするアベノミクスが創り出したのかもしれない。『ゲゲゲの鬼太郎』を水木しげるが描いて当たったのは池田隼人の「所得倍増論」の後しばらくしてからだ。

 弘前の桜祭りには「お化け屋敷」の出し物が定番だと先に書いた。とすると名古屋でも桜の咲くころ「お化け屋敷」の見世物小屋を出すと当たるのかもしれない。その際、大須ういろうが妖怪花見団子や骸骨の顔をした妖怪ういろうでも出せは案外当たるのではないか。たとえ当たらなくてもほぼすべてのマスコミは面白がって取り上げる。無料でいい宣伝ができると僕には思われるのだが。

妖怪★いちご大福ついでに言うと谷中霊園の近く、日暮里駅東側にある和菓子の老舗「江戸うさぎ」では『妖怪イチゴ大福』が売られている。写真右:ちょっぴり妖怪っぽい 妖怪イチゴ大福
イチゴ=春=妖怪の図式が成立するのだろう。


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僕にとってのアール・ブリュット 「アドルフ・ヴェルフリ展」に関して

僕にとってのアール・ブリュット 
「アドルフ・ヴェルフリ展」に関して  
於名古屋市美術館  2017年3月7日〜4月16日

アドルフ・ヴェルフリ展パンフ
 今、名古屋市美術館でアール・ブリュット(Art Brut)の原点と言われるアドルフ・ヴェルフリ(1864~1930)の回顧展が催されている。(写真右)
フランス語でBrutは「生(き)の」Artは「芸術」であり、まとめれば「生の芸術」、正規の美術教育を受けていない人が自発的に生み出した、既存の芸術のモードに影響を受けていない芸術ということだ。ビールでいえば生ビールということか。変に味を加えたり寝かしたりした細工のない味と思えばいいのか。
 「お酒を飲まない山彊さん、ビールは変に味を加えるのではなく、おいしくするための工夫をしているのですよ」。分かってますよ。終戦前まで我が家は酒問屋であって、戦時中酒の入荷が少ないと「3割までは水で薄めても酒税法違反にならない」と親父は水で割って販売していた。親父は酒問屋に養子に来たのだが全然酒が飲めず、したがって酒の味もよくわからない。酒が飲めないから養子に決まった親父は酒のみの気持ちが分からないから平気で水を加えたのだろう。無論戦時中の物資不足が大きな要因ではあったろうが。父に似て僕も酒が飲めない。

 ところでアール・ブリュットの存在を最初にはっきり意識したのは僕の30歳の折であった。当時はアール・ブリュットという名もヴェルフリも日本ではほとんど知られていなかったので、僕が意識したというのはアール・ブリュット的な作品という意味でだ。美術大学で僕らを指導してくれた教授は、そのまま写すだけの日展や抽象画が多い春陽会の画家であったため、それらが優れた絵画と教え込まれ、他の作品、例えばアール・ブリュット系の作品に出会っても当時の僕は評価しなかった。
 今の僕は草間弥生の作品もアール・ブリュットの一環として大いに評価している。でも1960年代当時は、彼女のニューヨークでの芸術行為は「頭のおかしい日本の金持ちのじゃじゃ馬娘が裸で街頭パフォーマンスをして目立っているだけ」くらいの認識しかなかった。その頃、芸術家のほとんどに読まれていた「美術手帳」誌でも僕の思考の外に出ることはなかったと思うし、スキャンダラスな扱いはすれ、芸術的価値を評価していなかったと思う。

 これらの作品を完全なるアートとして僕が認識したのは70年になってからだ。それは戦後初の講談社の世界美術全集によるところが大で、その3巻(僕の作品もこの巻に掲載されているが)にあるジャン・ デュビュッフェ(1901~1985)の作品を見てからだ。

写真下左:ジャン・ デュビュッフェ作「バラを持っての小躍り」 右:「帽子の飾り結び」
バラを持っての小躍り 帽子の飾り結び

 子供の様に描いてあるが、何か表現できない幼い頃の原点を見せられているような郷愁を含む魅力ある作品だ。ご存知のように彼がヴェルフリを称賛したアール・ブリュットの提唱者である。

 他に同じ全集の2巻に掲載されている色鉛筆画のゾンネンシュテルン(1892~1982)の作品も普通人の理解を越えたものが僕の心をとらえた。この作家は経歴もアドルフ・ヴェルフリに似ていると僕は理解したが、ものすごく魅惑的だ。

写真下左:ゾンネンシュテルン作 「シュルレアリスム的な構成」   右:「おこない」
ゾンネンシュテルン 「シュルレアリスム的な構成」 1965  おこない
 
ゾンネンシュテルン 
 青木画廊の青木氏がゾンネンシュテルンを訪ねたら、はるばる日本から来てもらったのに何も見せるものがないから、これでもと言ってズボンを脱いで下半身を見せたのは有名な話だ。(写真右)

 アール・ブリュット系の作家は自分の作品が見られることを意識せず、お金を得ようとか認められようとかせず作品を創り続ける者たちだ。だがこのゾンネンシュテルンは見る人を少なからず意識して描いているように僕には映った。誰しもこの絵には目を止めるほど魅力的だ。出版社が画集に取り上げる作品は、画集がたくさんの人に買ってもらえるように視覚的に惹きつけるものを重要視する。世界美術全集にゾンネンシュテルンが選ばれ、すでに評価されていたアドルフ・ヴェルフリが取り上げられなかったのはその違いかもしれない。それ故、ヴェルフリは我々の目に届かなかったのだろう。僕は今回初めて彼の作品を目にした。

 名古屋市美術館が、ここ最近のアール・ブリュット人気が高まる中、満を持してアドルフ・ヴェルフリを取り上げたのはなかなかだ。視覚的に分かりづらい作家だから、生の原稿や作品を見ないとそのすごさが伝わってこない。そんな作家だからこそ展示する意味は十分にあると思う。名古屋の保守性に合わせた展覧会の企画ばかりしていたら、この地はいつまでもローカル芸能から抜け出せない。だがこの視覚的に分かりづらい展覧会に保守的な名古屋人がどれだけ興味を持つか少々心配だ。

ヴェルフリ部分拡大
 さて会場に入りまず驚かされたのは、さらりと見て通り過ぎることができず、作品の前で釘づけにされる自分がいたことだ。「生きるとは何だ」「芸術とは何だ」を考えられされる。文字や数字、幾何学模様の似たような絵柄作品が延々と続く。まるで人生の迷路に踏み込んだようだ。
写真左:ヴェルフリ作品部分拡大

ヴェルフリコラージュ作品
 彼の作品にはコラージュ作品(写真右)も多く、それは1915年ころから始まっている。コラージュというと第1次世界大戦を避けて1916年チューリッヒに集まったダダの芸術家達を連想する。彼らは既成の秩序や常識を否定した運動を起こし、コラージュを主たる技法にしていた。アドルフ・ヴェルフリがダダの作家達からの影響を受けてコラージュを始めたか、ダダの絵描き達が同じ頃スイスの精神病院にいて知られ始めていたヴェルフリの影響を受けたのか気になるところだ。それとも既存の芸術を否定しようという気運が満ちてきたこの時期に偶然の一致が起こったのだろうか。1920年代半ば以降はダダの姿勢や方法論の一端はパリのシュルレアリスム・グループへと継承され、ダダとシュルレアリスムは20世紀の前衛芸術の二大潮流を形成することになる。

 アドルフ・ヴェルフリで僕がすごいと思ったのは死ぬまで作品を創り続けていたことだ。ピカソ(1881〜1973)も同様で亡くなる間際まで作品を創り続けた。僕の周辺の絵描き達は自分の作品が何の需要もなく、死んだら捨てられることを意識した途端に制作を辞めてしまう。死を忘れるために常に何かに挑戦し続けるのが人生だと考えている僕は、常々ピカソを見習いたいと思っていたが、このアドルフ・ヴェルフリ展を見てもう一度、死ぬまで制作を捨ててはいけないと再確認した次第である。


堀美術館が長谷川利行作品を購入

堀美術館が長谷川利行作品を購入

ノアノア
 僕の友人の堀美術館館長が長谷川利行作「ノアノア」(写真右)を購入した。その作品をNHKの日曜美術館で放映(3月12日と19日)するから見てほしいという案内が来た。彼はマスコミ嫌いで取り上げられるのを嫌がる。それなのに僕に連絡が来たのは、この作品が取り上げられるのがよほど嬉しいのに違いない。彼の美術館には10点以上の三岸節子の作品があり、藤田嗣治も数点、他に梅原龍三郎や安井曾太郎、熊谷守一、佐伯祐三、日本画は加山又造、平山郁夫、東山魁夷等有名どころは全て所蔵されている。近くにあるヤマザキマザック美術館は新しい作品購入がゼロなのに堀美術館は次々と購入している。「俺が死ぬ時には1点ぐらい君にやってもいいぞ」と冗談を言っている。彼が今回買った長谷川利行の作品は利行の代表作で数千万する。もし僕にくれると数千万円もらえるということか。彼の美術館には僕の60年代の作品も数点入っている。僕のこの時代の作品は当時人にあげたり、他の美術館に入ったりしてほとんどなくなってしまった。だから僕にとっては自分の作品をもらう方がうれしい。
 
NHK番組日曜美術館 長谷川利行
写真上左:NHK番組日曜美術館   右:同番組「今がいとおし~鬼才長谷川利行」より

 利行は終生家もなければ家族もなく、一銭の蓄えも家財さえなかった。浴衣に下駄を引っかけ、酒に浸って野良犬のようにさまよいながら絵を描いた。熊谷守一によれば、ちょっと知り合ったが最後、金の臭いをかぎつければ即押しかけて何度も絵を売りつけ、金をせしめるまでは玄関から一歩も動かなかった。東郷青児の家にもいき、買ってくれなかったらここから動かぬと言って座り込んだそうだ。そのため青児はやむなく買ってやった。これで味を占めるとその後もたびたびやってきたという。そのため、東郷青児ら二科展委員などからひどく嫌われ、会員にもなれず、よって(金は欲しかったのに)絵の値段はいつまでも上がらなかったそうだ。

 堀館長は以前は加山又造の日本画が好きだったが、その後梅原を購入すると彼のとりこになり、ここ数年は藤田嗣治がお気に入りであった。だが今回長谷川利行を購入すると「ひょっとすると梅原より利行の方が評価を得るようになるかもしれないな」という。僕の持論だが、画家の生き様はその評価に大いに影響する。同時代に生きた者にとっては迷惑な人物でもその常軌を逸した破天荒な生き方が、かえって評価にプラスになる。ゴッホ、今名古屋市美術館でや開催中のアドルフ・ヴェルフリなど然りだ。また画家の評価は、いつの時代に生きたかも関係する。利行がすごいのは1900年代前半に誰も描かないような絵をあのタッチで描いていたからだ。現代にあの絵を描いていても認められるかどうかは疑問だ。
 堀館長の興味はだんだん現代美術にシフトしてきているから、いずれ会田誠や奈良美智、森村泰昌がいいと言い出すのではないか。この変化はおしゃべり相手の私としては楽しい。

 堀美術館は名古屋市東区主税町の閑静な住宅街にある。町並み保存地区に指定された江戸時代の武家屋敷の面影が漂う所だ。堀館長はここでお金儲けをしようとは思っておらず、金、土、日の3日間しか開いておらず惜しい気がする。彼専用の美術館になっては惜しいので皆さんが共有できる美術館にしてほしい。行ってのんびり昼寝でもしながら、お金持ちの応接間にいる感覚に浸ってもいい。忙しい昨今、こんな時間があってもいいのではないかと思う。

 この美術館はこのように個人の収集ながら数百点の作品を収集している。これらの作品写真を入れた所蔵作品集を作ってほしいものだと僕はかねがね願っている。作品写真の著作権は作品が美術館に入っていても作家側にあり、それを勝手に使ったりすると問題になり、時折裁判でもめている。だが観客にとっては文字だけでなく写真の入った目録も見たい。
 そんなこともあり昨今の美術館は作者にその権利を美術館にもくれないかという連絡を入れている。

国立近代美術館封筒 国立近代美術館からの手紙
写真上:僕のところに来た東京国立近代美術館からの封筒(左)と書類(右)

 先日僕のところにも東京国立近代美術館から、所蔵している作品を写真で載せたいが許可をくれないかという書類が届いた。これはうれしいことだ。今までのようだと、A美術館にあるB氏の作品をネットで調べたいと思っても、作品名やサイズだけではどんな絵なのかさっぱり分からない。堀美術館もこんなサービスをしてほしいものだ。

シンポジウムパンフ 
 この長谷川利行のテレビ放映の1日前、名古屋市港区の「港町づくり協議会ビル」で現代美術のシンポジュウムがあった。
写真右:シンポジウム ポットラックスクール
パネラーは版画家の原健、金城学院大学元教授の山村國晶、同じく名古屋造形大学元教授の加藤松雄、まとめ役として藤井達吉美術館の木本館長だった。名古屋で現代美術系のシンポジュ―ムは珍しいこと。そんなこともあり中日新聞でも朝日新聞でも紹介され、私も聞きに出かけた。港という場に現代美術の拠点を作れないかなという主催者側の気持ちがよくわかった。パネラーは皆私の仲間たちばかりだから感想は控えるが、終わりがけに付け加えた原さんの言葉が面白かった。これを聞いて忙しい中、やって来たかいがあると思った。

シンポジウム風景写真左:シンポジウム風景 こちらを向いている人で向かって一番左が原さん
 原さんによれば、名古屋の絵好きの仲間がニューヨークのMoMA(ニューヨーク近代美術館)へ行って、そこに飾ってあるあのモンドリアンの作品を見て感激して彼に話したという。「モンドリアンの作品が何故スゴいか分からなかったが本物を見てよく理解できた。すごくきれいに色が塗られているんですよね」と。実はMoMAにあるモンドリアンの作品は痛みがひどくなっていたので、やむなく学芸員がそこらにあった絵具で適当に修正したのだという。この話、名古屋の芸術のレベルは高いと言いまくっているほとんどの名古屋人への強力なカウンターパンチになるのではなかろうか。名古屋では日展を日本一と思っている人が多いが、この地方以外では日展の入場者は名古屋の十分の一にも満たないし、また一流画家は出品どころか見向きもしない。キレイに描くだけのぬり絵調の作品が多い日展を日本一と評価する名古屋人思考が上の話にもよく表れている。



円頓寺界隈の近未来

円頓寺界隈の近未来

浅間神社
 先日、朝日風景画教室の生徒さんたちと絵になる場所を探して、四間道から円頓寺界隈を歩いてみた。四間道町並み保存地区の一角にある1647年遷座と言われている小さな浅間神社から土蔵の喫茶店、懐かしい風情を醸し出している県指定の重文になっている川伊藤家等を歩いてみた。

写真右:浅間神社 この写真では分からないかもしれないが細長い長方形のとても小さな神社だ
写真下左:土蔵を利用して作った喫茶店 
写真下右:石垣の塀が立派な川伊藤家

土蔵の喫茶店 川伊藤家

僕も何回かこの四間道界隈には来たことがある。外国人を連れてきたこともあった。屋根神様を見せると大いに喜ばれた。
写真下:屋根に祭られた屋根神様
屋根神様

 お昼になり仲間21人で食事に入ったうどん屋さんでは、先客のおばあさんが真っ黒に見えるお汁がかかった昔懐かしいきしめんを食べていた。幼いころの味が即、脳裏に浮かんだ。小学生の頃、風邪を引いて僕が寝込み食欲がないと、お袋はうどん屋に走り、消化にいいと言われるきしめんを買ってきてくれたものだ。真っ黒に近い醤油の色だが、飲むとそれほどでもなく、かつお味が効いていて、ほうれん草とかまぼこが乗ったきしめんは絶品だった。熱のある体にこの味はよくあっていた。そんな訳ですぐに同じものを注文した。僕の隣に座り、アメリカに幾年も滞在経験のある50代の生徒の女性は、ほぼこのお汁を飲むことはなかった。昔の日本を知らなかったらまるで醤油をそのまま飲むように感じる色だからだ。

円頓寺商店街 
写真右:円頓寺商店街の中のお店
 昼食後も引き続き、風景画作品にすると良いと思われる景色の写真を撮りながら円頓寺通をふらふら歩いていた時、突然僕の頭の中に何かが閃いた。ここは数年すると面白い町になり何かが起きるぞという予感がし、この町の未来予想図が僕の脳裏に写真でも見ているように浮かんで来たのだ。通りにはアジア系の外国人が行き交い雑踏の中から彼らの話す外国語が聞こえてくる。行きかう人々は外国人がほとんどで日本人は商店の人達だけくらいだ。

円頓寺銀座 
 だが現実の円頓寺商店街には、現在外国人はそんなに多くは歩いていない。しかし最近さびれた商店街の再活性化を図る試みがなされ、いろいろニュースでも取り上げられている。空き店舗を利用した数軒の外国人バックパッカー向けの民泊が目につくのもその試みの一つだろう。もし僕が外国人のバックパッカーで名古屋へ来たとしたら、滞在地としてここを一番に選ぶだろう。寺が多く昔の雰囲気を残したさびれた商店街が安心感と郷愁を与える。行き交う地元住民はこの町の発展を望んでいるような顔つきで、それがまたアジア系外国人にある種の親しみと安堵感を与え、彼らに排除感を与えないように思われる。
写真上:円頓寺銀座と名付けられた狭い路地 ベトナム料理の店があった

 「山彊先生、その昔、バックパッカーだったと聞いたことがありましたが、本当ですか」。
いやその昔どころか70歳近くまでそうだった。去年のニューヨーク個展の時もYMCAに泊まったから、バックパッカーのようなものだ。妻と行ったのでツィンの部屋を頼んだらぼろい2段ベッドだった。特に若い頃は、アルミの竿2本と下に寝袋のついたリュックを背負って世界中を彷徨っていた。宿代が120円のインドのトリバンドラム、ふと後ろを見たら煉瓦で僕を殴ろうとしていた男がいたケニヤのナイロビ、真夜中の12時頃、スパイの疑いでもう少しで軍人に捕まりそうになったグルジアのトビリシ、軍隊に捕まり、尋問されたエクアドル、6人部屋で僕を除いて5人が黒人だったタヒチのドミトリー宿などバックパッカーとして思い出すことはいくらでもある。その思考で今、僕は円頓寺を見ているのだ。

赤色が生える神社
 「でもその思考で見て、なぜここにたくさんのアジア系バックパッカーが集まると思ったのですか」。
アジアの国々から見ると、日本は陰りはあるもののまだ憧れの国だ。彼らの国の生活水準が向上するにつれてたくさんの人が海外に旅行するようになった。だから日本にますます多くの旅行者がやって来るだろう。現在の旅行者は名古屋を無視しているが、いずれ2度3度目の来日になると、間違いなく名古屋の地が気になるはずだ。金持で日本の超豪華ホテルに泊まりたい人は別だが、その名古屋の駅近辺に安い宿があり、元繁華街で昔の町の面影を起こすとあれば興味をそそる筈だ。アジア人にとっては日本の古い街は郷愁を覚えるものだろう。現在名古屋で外国人が多く行く街としては大須があるが、あそこは観光客用にかなり作り替えられ、古いものも残しているが、外国人が店を出していたり、古着屋があったり、雑多で元気いっぱいの感じがあり、円頓寺のようなちょっと裏さびれた寂しさを伴う郷愁感がない。円頓寺はアジアの下町を感じる町となって賑わうようになると思う。今はネットの時代、すぐに情報が飛び交う。その結果円頓寺に人が集まり、僕の未来予想図が当たることになればいいなと思う。
写真右上:赤色が生える郷愁を誘う神社

 ところで自分でいうのもなんだが、僕の思いはよく当たる。これが今回、この文を書いてみたくなった理由でもある。僕のこのようなひらめきは、いつも夜明けの浅い夢から生まれる。昼間の思考に登場しなかったことを浅い夢は探り出してくれるようだ。これは助かる。でも癌でなくなった友人の社長に言わせると、この時間帯は恐怖の時だという。目が冴え、自分の今後、また息子に会社を譲ったがうまくいくか等が心配で死にたくなるのだと言う。この眠れない時間帯が彼を癌に誘導したのかもしれない。日本の自殺の時間統計で行くと、この夜明けに自分で死を選ぶものが多いらしい。僕は有難いことにそれは無い。今回の予想は明け方の夢ではなく昼間だったが、円頓寺の不思議な空間が僕にこのような白昼夢を見させてくれたのだろう。


※僕の教室の生徒さんたちの風景画展が来る3月14日(火)~3月19日(日)まで栄の市民ギャラリーで催されます。風景画作品としての出来栄えレベルは日本でも一流に入ると思うのでぜひ見にいらしてください。風景画はただきれいな景色を写真のように器用に描くものと思っている人が多いように思いますが、そのような絵は誰の絵も同じようなものになり、物まねのようになります。絵画は個性であり、その個性から生まれる創作であるということが我々の作品を見ることによって分かっていただけると思います。


魚が閉じ込められた氷上を滑る 北九州スケートリンク事件

魚が閉じ込められた氷上を滑る 
北九州スケートリンク事件

魚の氷漬けリンク
 最近、5000匹の魚を氷の中に入れた北九州市のスケートリンクの企画が一部の人々の反対にあって中止になるという出来事があった。
写真右:氷の中に魚を入れてリンクを作る作業中の写真
「子供たちへの教育上、残酷で悪い影響を与える」というのがその理由らしい。確かに魚を氷に閉じ込めるというと、人間などを生き埋めにするようなイメージがあり、残酷だという発想につながったのかもしれない。また「生き物の上を滑るのはそのものに対する軽視にならないか」という意味合いもあったようだ。実際はもちろん魚市場で廃棄処分される寸前の魚を使ったとのことで、子供たちに水族館の気分をスケートリンクでも味わってもらいたいというサービス精神からでた行為だろう。

魚氷
 僕としては、氷に魚を閉じ込めその上を滑る行為を知った当初、「アート的で面白い」「このアイデアはアート界のオリンピックと言われるベニスビエンナーレ展のような世界の美術展にも使える」と思ったものだ。
 皆さんお馴染みの「さっぽろ雪まつり」では氷の壁を作りその中に蟹や海老、鯛等の魚を入れて水族館のように展示している。
写真左:さっぽろ雪まつりで人気の魚氷
これがすすきの会場の目玉でもあり、もう33回も続いている。こちらは見るだけで滑らないからいいのだろうか。
 
活け造り
 動物愛護団体等の言う「残酷だ」というのは何をもって言うのだろう。生きている牛を興奮させ、殺していく闘牛は残酷だろう。では料理屋へ行って食べる海老や鯛等の活け造り(写真右)はどうだろう。まだ完全には死んでおらず、ぴくぴく動いている魚を鮮度抜群だと言って食べるのは?彼らは活け魚料理を食べることには反対しないのだろうか。

 中学校の理科の授業では蛙や鮒の解剖実験がある。(近年では都市化が進み子供たちで蛙等確保するのが難しいことや親たちの反対、先生自身の裁量等でやっていない学校が多いようだ)麻酔で蛙を半殺しにし、腹を切って内臓の位置や赤い血管やぴくぴく動く心臓や肺を観察するものだ。これも完全廃止にすべきだろうか。ある学校では子供たちが捕まえた蛙に愛情が湧き、解剖の前には全員が手を合わせ、解剖後は泣いたと聞く。命の授業が行われたのだ。

 魚は食料でもあり、生物として鑑賞の対象にもなる。水族館では生きた魚類が、美術館でも魚類は絵の題材として描かれている。氷の中に魚がいれば、滑りながら理科の観察や美術鑑賞ができる。スーパーで購入した食べる部分だけ切り取った魚しか知らない子供たちにとって驚きの発見があり、自然を知る勉強になるのではないだろうか。

 ともあれ北九州のスケート場は批判を受けてこの企画を中止した。「こうなってしまった場合、山彊先生が担当者だったら、どうしますか」。僕なら転んでもただでは起きない精神で次の手を考えるね。「魚を撤去します。ほしい方は氷を割って自由に持っていってください。魚は凍らせてあるから火を入れれば食べてもイイですよ」と呼びかけるね。子供たちの大人気になって、スケートリンクのPRにもなる。それに一部は切り取って魚の入った壁としてスケートリンクの目玉とするね。まさに氷の水族館だ。えさ代もいらないし、水替えもしなくていい。これは札幌の雪まつりと同じ発想だ。人々の考え方は千差万別だから賛否両論が出るのは当然のこととして企画者は対処すべきなんだろう。

 ところで2年前、愛知県美術館に出されたペニスの見える有名写真家の作品に卑猥だと文句を言った観客がいて、県警は撤去を命じた。その作家は反発してその部分にカーテンをかぶせて出品をつづけた。その1年後、大阪の美術館でも同じような作品が展示された。こちらは有名な画家森村泰昌のペニスの映った写真だ。けれど大阪市民は誰もいちゃもんをつけなかった。

写真下左:愛知県美術館の男性裸体写真に関する記事  
写真下右:森村泰昌本人の裸体写真作品

裸写真作品の記事 森村自身の裸像写真

 裏話だが愛知県美術館では、このことが新聞に報じられたおかげで入場者が増えたと言って関係者は大喜びであったとか。この事件に関するするもう一つの裏話は、この作品の撤去を命じた警察署の所長は僕のかつての教え子だったことだ。もしこの事件が話題となって入場者が増えることを先読みして彼が命令を出していたとしたら、僕の美術教育もまんざらではないかもしれない。何はともあれ名古屋は大阪と違って新しいことに挑戦しようという気運が少ない。

 だいぶ以前の話になるが東京の週刊ポストから僕に取材があった。「名古屋地区は何故観覧車ばかり作るのか。刈谷にも名古屋港にも、また栄のど真ん中にも・・。」僕は次のように回答した。「名古屋人は気が小さい。余分なことをせず、じっとしていれば首にならなくていい。観覧車設置は誰でもが考えつくことでコストもあまりかからない、だから万一失敗しても、叱られることはあまりない。変わったこと、大きな企画をして失敗したら首になる。だったら変わったこと新しいことをしないことだ」
 
写真下左:僕のコメントが載った週刊ポスト  
写真下右:名古屋地区の観覧車の写真と下に書かれた僕のコメント

僕のコメントが載った週刊ポスト 観覧車と僕のコメント

 そして名古屋はだんだん魅力をなくし、今では日本で一番行きたくない街となった。魚の氷漬けスケートリンクの話からこんなことを僕は連想していた。



カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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