FC2ブログ

名古屋名物『なごみまん』  大学生の創作饅頭?

名古屋名物『なごみまん』
愛知学院大学と名古屋学芸大学の創作饅頭?

なごみまんの栞
 先日、絵を教えている人から名古屋名物と銘打った饅頭をいただいた。僕の近所にある1935(昭和10)年創業の「御菓子舗おくむら」で購入したものだ。この品は創作饅頭で愛知学院大学が名古屋市北区との包括協定に基づき、おくむら菓子舗、金虎酒造、名古屋学芸大学の協力を得て企画し、意匠登録もした饅頭であると言う。地元の金虎酒造の吟醸酒粕を加えた「尾張名古屋のなごみまん」という饅頭だ。写真右:なごみまんの栞

 創造精神に欠ける名古屋が最近、高校や大学とコラボして新しいことにチャレンジしている。チャレンジ精神で名古屋を盛り上げようとしてくれる学生たちには大いに拍手を送りたい。

写真下:しおりに描かれた説明
なごみまん説明

おくむらで売られているなごみまん
写真左:おくむらで売られている創作饅頭「なごみまん」
 だが包みをあけて落胆した。まず見た目が全然創造的でないのだ。スーパーで売られる鬼饅頭を小さく小山形にして酒粕を入れ作ってあるだけだ。色も市販の鬼饅頭とほとんど変わらない。(鬼饅頭とは小麦粉とさいころ状に切ったサツマイモを混ぜ蒸かした饅頭のことだ。僕の小学校の頃、母がよく作ってくれ自分でも作ったもので、当時は砂糖がなくサッカリンという甘味料で甘さを出していた。この安い素材のふかしイモ饅頭は食糧難の戦後、全国で作られたはずだ。それが名古屋では鬼饅頭と呼ばれた。)さて肝心の創作饅頭の味はと言えば、まずくはないが、現在スーパーや他の菓子鋪で売っているものとあまり変わり映えがしない。ほのかに酒粕の香りはするが特別に美味というわけでもない。

 僕が10月17日に出版する『名古屋・妖怪三十六景』(ワイズ出版)にも詳しく載せているが、戦後皆が食べたこのあまりおいしくもない饅頭を、名古屋人が喜んで食べたのは勿論当時の食糧難によるところが大きいが、その後もずっと続けて食べられているのは、「鬼饅頭」というネーミングにあるのではないかと思う。この饅頭をその材料の安さから貧乏饅頭とでもネーミングしたら名古屋人でも食べないだろう。鬼というと怖いけれどちょっと高貴な感じがして饅頭が高級に思えてくる。そしてこの名前が名古屋地区で定着して今も菓子舗やスーパーでも売られ愛されている。この地ではお酒の「鬼殺し」がよく売れるのに似ている。スーパーに行くとこの銘柄が目立つ。東京や大阪では探すのに苦労する。

 さて、学生たちが創作した饅頭に話を戻すと、上記したように見た目は全然創造性が無い。またおいしそうにも見えないのだ。創作饅頭と銘打ったからには、何かアイデアが欲しい。せっかく若い大学生が考案したのだから、もっと若い子が「おいしそう!」とか「かわいい!」と言って飛びつくような外見にしてほしい。

 次に名古屋の鬼饅頭の歴史を考えたら、看板になる鬼の文字を除き「なごみまん」というネーミングにするのはいかがなものか。これでは売れるわけがない。これを創作したという大学の先生や学生達、何故こんなものを意匠登録までして売れると判断したか僕には理解不能だ。思考レベルが低すぎる。この創作饅頭がこの名古屋で好まれ定着し、数年でも残るなんて考えにくい。「山彊先生言いすぎじゃないの?」名古屋人は何事も相手との摩擦を嫌い、「いいわ、いいわ」で過ごしすぎる。大学の先生が考えたとしてもつまらないものはつまらないのだ。

 まず名前は「なごみまん」とせずに、鬼饅頭の名を生かし「ニュー鬼饅」とか「oniman」にする。外見については午後のコーヒータイムの時間10分ほどを使い僕なりのアレンジで4点程考えてみた。これはいただいた「なごみまん」を使ってトッピングなどをしたものだ。これは僕が例えばこんなものはと思って考えたものだから、若い学生の皆さんはいろいろ最新のアイデアを考えつくことができるだろう。

写真下:僕が考案したニュー鬼饅、又はoniman 上段は春の華やかさと金シャチをイメージしたもの、下段は女の子の鬼と男のの鬼をイメージしたもの
僕が考案した新しい鬼饅頭1 僕が考案した新しい鬼饅頭4

僕が考案した新しい鬼饅頭3 僕が考案した新しい鬼饅頭2

幽霊子育飴
※今回出版する「名古屋・妖怪三十六景」がヒットして、その中での妖怪街道の話が定着したら僕も創作名古屋饅頭にチャレンジしてみたい。お菓子舗おくむらは妖怪街道の直ぐ近くにある店だから妖怪物が売れるだろう。イモを使うなら紫イモを使い妖怪の顔の饅頭にしてみたい。京都には幽霊子育飴本舗があり常にマスコミの話題をさらっている。妖怪饅頭もまず話題を取るだろう。本が大ヒットしてからの話だけど。




スポンサーサイト

映画『フィンセント・ファン・ゴッホ:新たなる視点』の試写会を見て

映画『フィンセント・ファン・ゴッホ:新たなる視点』の試写会を見て
2018年10月6日より全国公開

映画『フィンセント』のパンフレット
 オランダのファン・ゴッホ美術館は2015年ゴッホ(1853~1890)没後125年を記念して館内のゴッホ全作品を展示する美術展を開催した。この映画はそれを軸に美術館の全面的な協力のもと、ゴッホの絵画と関係者の証言を織り交ぜ、彼の生涯を忠実に追ったものだ。これを見ると従来の「狂気と情熱の画家」というゴッホのイメージが覆されるとパンフレットには書いてある。だから日本語のタイトルにも『…新たなる視点』という語句が加えられているが、原題は単に『VAN GOGH』だ。
写真右:試写会のパンフ

ゴッホ自画像
 映画はゴッホによく似た(似せた)役者が弟テオ(1857~1891)に出した手紙を読んでいく形で、ゴッホの生涯を時代順に語っていく。その時々に描かれたゴッホの絵や解説が入る。彼の生涯を大げさに脚色したりドラマチックにせず、事実を淡々と語る手法がゴッホの真実の姿をより伝えてくれる。93分の上映時間の大半が館長や学芸員たちの説明やコメントで成り立っている。だがくどいとは思わない。それぐらい彼らはゴッホの真実を語り、僕たちに「人間とは?」を問いかけてくる。
写真左:ゴッホ自画像 映画はこの絵ゴッホがそっくりな役者の顔に変わっていくところから始まる

 僕は画家という仕事柄、芸術の歴史や画家の生涯を調べている。だから世間で一般に言われているようにゴッホが気の狂った特殊な画家とは思っていない。それ故今回の映画を見てゴッホに対する認識が覆ったということはなく、見ながら「そうだよね。分る、分る」と納得することが多かった。

耳を切った自画像
 多くの人は耳切り事件や、絵が全く売れなくても生涯描き続けたこと、奉仕的な見習い神父時代等からゴッホを誤解しているようだ。
写真右:ゴッホ作「耳を切った自画像」(1889)

 そんなことを物語るエピソードがある。以前、僕が教えていた名古屋芸術大学へ東京芸大卒の若い先生が非常勤講師としてやってきた。彼はこの大学の教授たちがあまりに怠惰で芸術に対する情熱が無いことにいら立ち、職員室で雑談している時に怒鳴り始めた。「あなた達はたくさんの給与を得て教授という地位に甘んじているため芸術に対する真剣さがない。これでは学生が可哀想だ。ゴッホを見習いなさい。お金がなくても絵を売り込もうとせず、女にうつつを抜かすこともなく、ひたすら絵を描き続け芸術に邁進した」と。彼は自分は東京芸大卒で若いけれどあなた方とは格が違うと思っていたこともある。

 彼の言葉の前半は僕も同意する。でもゴッホ云々は彼の知識のなさを暴露している。ゴッホはお金にも、自分の売込みにも無頓着で芸術一筋に生活していたわけではない。首になった画商のオーナーへ自分の絵を買ってもらうため、彼の娘の誕生日等にかこつけてはお祝いの手紙や自分の作品を送ったりしていた。作品もシスレーやシニヤック等点描画派の真似をすることもあった。
写真下左:写真:点描画の影響を受けた作品、ゴッホ作「モンマルトルの丘の眺望」(1887)
右:点描画家のシスレー作「サブロンの森のはずれ」(1883)

モンマルトルの丘の眺望 シスレー作『サブロンの森のはずれ』

 又ロートレックと知り合いになったゴッホはロートレックが自宅でパーティーをする折、一番早く出掛け部屋に自作をこっそり置き、訪れた客に自分を売り込もうとした。これはすごく失礼な行為であるが、有名になって絵が売れるようゴッホは必死だったのだ。売春宿にも行き、梅毒にも罹り、女性好きでもありすごい人間臭さもあった。(こういったことはさすがに今回の映画には出てこなかった)僕は彼に「君の気持はよくわかる。でも美術の先生ならゴッホについてもう少し勉強した方がいいよ。」とだけ言っておいた。

 当時この芸大に教え子の女子学生を自分の家に連れ込んだり(タクシー運転手の証言)、イタリアの作家の盗作ともいえる絵を描いて作品を売る親分教授がいたから、この若い講師にはそれに対する怒りもあっただろう。まだ今ほどパワハラ、セクハラが厳しくなかった頃だ。余談だがこの親分教授、色々なことが世間にばれテレビでも全国的に放映されて首になっている。盗作疑惑で芸術選奨文部科学大臣賞なども剥奪されている。僕の友人画家は彼が早朝、女子学生と二人ヒルトンホテルの廊下にいたところに偶然出くわし、教授は逃げ出したと僕に語ってくれた。女子学生を妊娠させ、分かっているだけで2回も堕胎させたとも聞いている。

 さて本題に戻ると、今回のゴッホの映画は発見された彼の手紙もふんだんに紹介され、彼の人間臭さが表に出て、見る人には驚きと感動を与えるものだった。又さすがゴッホ美術館の全作品展示ということもあり、まだ見たことのない彼の作品も見ることができた。時系列にそれらが登場するので彼の描き方の変遷も分かる。

 僕はゴッホについてよく分からなくて気になっていることがあったが、今回この映画をみて納得した。例えば弟テオがゴッホを援助していたことは勿論知っていたが、どれほどのどんな援助かという点である。生存中1点の絵しか売れなかったゴッホが、なぜ膨大な絵具とキャンバスを使った絵を描き続けられたのか、アルルに家を借りゴーギャンをただで住まわせたり、妊娠している女の出産までの面倒をみた費用は?こういった事全てはテオの援助による。これはテオが画商として相当のやり手であったことが分かり納得した。テオはゴッホが27歳で画家として生きると決めてから37歳で死ぬまでの10年間金銭のみならず全面的に援助し続けた。献身的な兄への愛は感動的だ。

テオ
 テオ(写真右)は1889年31歳で結婚し子供も1人授かっている。その半年後ゴッホはピストル自殺(最近は自殺ではないという説もある)する。一説には、ゴッホは弟の愛が妻や子供に行き金銭的援助も少なくなったことを嘆いて自殺したとも言われている。さらに兄の死後、落ち込んだテオは半年後に33歳で亡くなっている。テオは生来病弱だったようだが、死因は梅毒の末期症状だった。兄の絵が世間で日の目を見ることが生きがいだったテオにとって生きる目標がなくなったことが死期を早めたとも言えそうだ。

 ゴッホとは直接関係はないが映画を見ながら僕は考えた。ゴッホは生涯840点程の油絵、1000点程の素描などを描いたが、もし彼の残した作品が少なかったら果たして歴史に残っただろうかと。勿論絵の芸術的価値が高いことが歴史に残る第一条件だが、それでも作品数が少なかったら、画商も動かず世に知られることもなかっただろう。膨大な作品があったからこそ彼を歴史に残しついでにお金儲けもしようとした人がいて、我々にも知られるようになったのではないか。ゴッホが売れないことにもめげず10年間休むことなく絵を描き続け、テオが援助を惜しまなかったから、今日我々はゴッホ作品を目にすることができるのではなかろうか。



東京の画家達による古民家美術展を終えて

東京の画家達による古民家美術展を終えて
「ボクとおやじのアートdeお盆ナイト」

小出家、展覧会会場
 前回このブログでも紹介したが、県営名古屋空港西にある豊山町の古民家でもよおされた現代美術展が終わった。写真右:豊山町の小出君の実家、展覧会会場になった。

 これは親孝行息子の現代美術作家、小出ナオキ君がお盆ぐらいは父親を老人ホームから旧我が家へ戻そうという発想から始まった。作家である彼はただ帰るだけでなくその期間、そこを使って現代美術の展覧会をやろうと考えたのだ。息子のアートをいつも応援して美術展には必ず同行してくれた父に懐かしい我が家で息子のアート展を堪能してほしいという気持ちからの美術展でもある。

写真下:小出ナオキ君
小出ナオキ君
 この美術展は新聞にも載ったので予想以上の人が訪れ、ボケが始まっていた父は、昔懐かしい地元の人々との対話で平常に戻ってしまったのだ。・・・こんなことを業界紙に僕が書いたから読んで欲しい。(最後に載せてある)

 僕がこの美術展に加わったのは小出ナオキ君からの要請によるが、ついでに東京の若い絵描き達は今、どの様な仕事をしているか、又小山登美夫ギャラリーの秘蔵子作家である彼がどのぐらいの実力があるか、将来性はあるか等見定めたいという気もあった。日本の美術は今、追い込まれ美大芸大の学生も数が減ってきている。そこを突破するアイデアを東京の若い作家たちは持っているかも知りたかった。きっと東京の連中のことだからクリスト程じゃないにしても大きな旧家が隠れてしまうような作品群で覆われると僕は期待した。

 だが僕がみたところ若い作家の多くが元気を失くして、箱庭制作症候群に陥っているようだ。お金がなく小さなアパートなどで作品制作をするため、展覧会で発表というよりも自分の日記のような作品になっているのだ。まあ今の社会事情では小市民化するのも仕方がないと思えるが。今回の出品作もそんな印象を受けた。

バルーン作品
 だから僕が出品した高さ5m、直径1.5m程の赤いバルーン作品とランスに持参した60号大の妖怪画が、かえって目立ってしまった。写真右:庭に置かれた僕のバルーン作品

 僕は小出ナオキ君には小市民化して欲しくない。きっとこの数年で思考を立て直し日本のアート界を背負ってくれるのではと期待している。まあそれも家族を気にしすぎると、忘れられた作家になってしまうが。僕と二人でどこかの美術館で大きな2人展でも出来たらいいなとも思っている。彼も相当な作品をプールし、僕も1千点程の作品を持っている。

写真下:小出ナオキ君の大きな作品 
小出ナオキ作品 
石崎さん、僕、飯田さん

 会期中小山さんも訪れ、新聞社や美術館の学芸員もわざわざ遠くまでやって来てくれた。彼は初めての名古屋展で故郷の温かみを感じたに違ない。

写真右:右から愛知県美術館の石崎さんと僕、日本中のコンクールを荒らす版画家の飯田耀子さん


老人ホームの功罪

 僕の大学時代の友人の息子で現代美術作家の小出ナオキ君が、お盆に空き家となっている旧自宅で展覧会を行った。きっかけは脳溢血で半身不随となって千葉の老人ホームに入っている父親が、盆には自宅に帰りたいと言ったからだ。

 彼の父は自宅で一人住まいをしていたが、3年前脳溢血で倒れ、半日後偶然尋ねた知人に発見され命拾いをしていた。連絡を受けて見舞いにいった僕に息子のナオキ君が「今後は家政婦を付けて自宅で生活をしてもらうつもりだ」と話した。僕はすぐさま反論。「そんなことをしたらすぐに家政婦に情が移り、資産全部乗っ取られるぞ」と。「父は歳ですから」と彼。「僕と同年だろう。僕ならすぐに家政婦とできちゃうね」と脅す。そんなこともあり自分の住む千葉に連れて行ったわけだ。舅との同居を嫌う嫁も多いが、彼は名古屋空港脇に膨大な農地を所有する身。売ったら二人が一生かかっても稼げないお金になる。文句なく同居すると思ったが、僕の誤算でそうはいかず老人ホームへ。そしてしばらくするとボケが始まったそうだ。朝起きて寝るまで何の会話もなく、たまにおしゃべりしている人がいると一方的に喋っているだけ。相手は何も聞いていない。

僕とナオキ君の父
 そんな父親を心配したナオキ君が、上記の展覧会を開催したわけだ。初日に僕が行くと「あぁ、山田君、何にしに来たの」と、半ばボケていい加減な挨拶。ところが展覧会の3日目、彼の態度はがらりと変わった。「山田君のおかげで美術展は大成功、僕は完全に生き返った。老人ホームはだめだ」となった。展覧会は地元の中日新聞に大きく紹介されたためひっきりなしの客が来て、頭が以前の教師や教育長時代に戻ったのだ。
 写真右:僕と車いすに乗るナオキ君の父(僕の大学の同級生)

 そこで僕は考えを改め、あの村上隆まで作品を買っているナオキ君に「お父さんをこの地に戻し、一緒に生活したらどうか。あなたは土日だけ公務員をしている妻の元に帰ればいい。ここなら広い屋敷で大きな作品がいくらでも創れる。亭主元気で留守がいいんじゃない?」と言っておいた。さてどうなるか?

ボクとおやじのアートde お盆ナイト

ボクとおやじのアートde お盆ナイト

―山田彊一による紹介―
(小出ナオキと父、仲間たち展)
旧自宅を開放しての美術展


アートdeお盆ナイトパンフ表 同 裏

場所:西春日井郡豊山町豊場大門1・・200坪の旧小出家
期間:8月13日(月)~15日(水)  12時より

参加作家:小出ナオキ(主催者)+父
       三杉レンジ、中谷日出子、泉啓司、山内康嗣、鈴木詩織。かねこまき
       Anzutann, 山田彊一(特別参加)
お茶代(入場含む):500円(13日バーベキュー参加2000円)
  無料にしようとしましたが名古屋人は必ず手土産を持って民家へは訪れる。だからお茶代として少しいただいた方が皆さん気 にせず来ていただけるという思いです。
協力:ボンチャン会


主旨
 東京等全国で活躍する若い美術家たちの名古屋展。
今の日本の現代美術が活気があり面白いかどうかの尺度は、彼ら若い美術家の活躍にかかっている。もし面白ければ、彼らのやる気の賜物だろうし、つまらなければ彼らのやる気なさを表わすものとなるだろう。そんな尺度で美術展を見てみると面白い。まあ名古屋では珍しい美術展だ。

 この美術展は脳溢血で倒れたナオキ君のお父さんのせめてお盆ぐらいは千葉の老人ホームでなく名古屋の我が家で過ごしたいという要求から始まったとか。お父さんは元校長でこの地の教育に貢献した。美術も大好きで息子のナオキ君の展覧会には常に出掛け、息子の代わりに解説をしていたほどだ。そこでナオキ君は父も喜ぶだろうと空き家になっている実家を美術館にしようと思い付いたわけだ。お盆であるため檀家の和尚に相談したら「私も何かで参加できたら嬉しい」となった。小出君のこの地での美術展は初めてで父親の大学時代の同級生で恋のライバル?であった僕に相談に来て、話しているうちに僕も乗せられてしまったというわけだ。大学時代は文学好きの元松原名古屋市長の奥さんだった美女に憧れた二人。卒業後、彼は教育に専念し僕はアートの世界へ。数年前名古屋市美術館で奈良美智に感化された小出ナオキの作品に遭遇。その前でにこにこ笑い作品の解説をしていたのが友達だったナオキ君の父だ。そんなこともありナオキ君のアイデアで、今回の美術展を開くことになった。
 ナオキ君は車いす生活となった父親にもう一度作品解説をやらせ元気づけようと、自分にできる親孝行をと考え、この形の展覧会となった。親子関係が希薄となった今の社会ではホットなニュースだと僕は思うし、東京の若い連中の作品も見られ喜んで参加することにした。
 僕も会期中は毎日ここに詰めている。よかったらぜひいらしてください。


写真下:山田彊一の出品作 台北でも展示した閻魔大王の赤いチンチン
閻魔大王の赤いチンチン

小出ナオキ君の紹介

 数年前名古屋市美術館で開かれた「高橋コレクション」展を見に行った。入ってすぐのところに家族をテーマにした彫刻作品があった。他の作品と比べてもそれはダントツに輝いていた。そしてその作品の横でにこにこ笑いながら作品の説明をしている人がいた。何と僕の大学時代の友人の小出君だ。「何故ここで説明しているの?」と驚く僕に、「これは息子の作品だ。息子は現代美術をやっている」との答。こうして僕は小出ナオキ君と知り合った。  

 3年前「父が脳溢血で倒れた」とナオキ君から連絡が入り、僕はもうだめかもと思いお見舞いに駆けつけたことがあった。だが運良く助かり、今は車いすで千葉の老人ホームで暮らしているそうだ。「父はいつも僕のアートを支え続けてくれた」とナオキ君は言っている。
 そんな父親のためにナオキ君は美術展を開きたいと考えている。父の希望もあり、今回はお盆に、生まれ故郷の豊山町の元自宅に帰り、彼やその仲間たちの展覧会をやろうということに決めた。これは父が亡くなるまで檀家寺であるお寺の和尚まで巻き込んでやろうと思っているとか。

 彼は千種高校を出た後、東京造形大学へ行く。その間、奈良美智の指導も受け、現在はあの小山登美夫ギャラリーで作品発表をして、村上隆コレクションにも入っている。大学以降ずっと関東に暮らして名古屋のことは全然分らないので色々教えてほしいと僕に相談してきたので彼に代わってこの文を書いている次第である。

小山登美夫ギャラリー展示作品
小出ナオキ作品1 
名古屋市美術館「高橋コレクション」展示作品
小出ナオキ作品2

エムバペのTシャツをゲット!

エムバペのTシャツをゲット❣

エムバペ (238x300)
写真右:サッカーのW杯ロシア大会でフランスの優勝に貢献した19歳のキリアン・エムバペ
 今年の5月の初め、名古屋とフランスのランス市の姉妹都市提携の記念式典があり、それを祝う美術展を当地で開催するためランス市を訪れた。そのついでに、パリやモンサンミッシェルにも立ち寄った。モンサンミッシェル向かう途中、バスが田舎のドライブインでトイレ休憩をした。そのドライブインのお土産売り場で僕はTシャツを買った。仲間の女性達がトイレに行っている間、ひまつぶしでお土産売り場をぶらぶらしていたら、Tシャツ売り場に目が行った。特に欲しかったわけではないが、そういえば、日本から着替えで持ってきたシャツが足りないことを思い出し、ここで買っておこうと思ったのだ。

 エッフェル塔や凱旋門等パリの名所の図柄が多いが、これはありきたりだからつまらないなと思っていると、サッカー選手のTシャツが何故か1枚だけ売れずにポツンと残っていた。僕はサッカーに詳しくないのでそのTシャツに書かれている選手の名前もチーム名も全くわからなかった。でもそんなことはどうでもよく、着替えにとその最後の1枚を購入した。値段はしっかり覚えていないが、高くなかったと思う。

写真下:モンサンミシェルへ行く途中立ち寄ったドライブインの中のお土産店
モンサンミシェルへ行く途中のドライブイン
 さて買ったTシャツを仲間に見せると、「山田先生、これはフランスではあまり知られていない控えの選手のTシャツですよ。だから最後まで売れ残っていたのよ」とサッカー通のおばさんにケチを付けられた。彼女は僕が買ったTシャツを見て、直ぐに超サッカーファンである日本の息子に電話を入れ情報を仕入れていた。

 僕にとってはただのTシャツにすぎず、その選手が有名であろうとなかろうと構わないが、ただなぜかこのTシャツは僕に買ってほしいとアピールするように1つだけ残っていたのだ。幼い時から僕のカンは不思議に当たる。ナンパするときも美術展で賞を取った時も、何かわからないがお告げのようなものが来る。一緒にいた仲間の馬場さんはたくさん積まれているフランスのサッカークラブの帽子を買った。

 さてその翌日、僕がこれを着てシャンゼリゼ通りを歩いたら、驚くべきことが起った。レストランのボーイや通りすぎる若者の多くが僕のTシャツを見て、オー、と言った感嘆の声をあげ、Vサインやトレビアン、シュペール!というような声を発していく。僕は例えば名古屋へ来た外国人がドラゴンズのTシャツを着て栄を歩いていたら、それを見た名古屋人は「あ、外国人も名古屋を応援してくれている」と感じて悪い気はしないのと同じぐらいに思っていた。こんな場合日本人はにこりとするくらいだが、こんなにもオーバーに感嘆の声をあげて僕に喜びを伝えてくれるのはヨーロッパ人だからなのだろうと思っていた。でも内心悪い気はしなかったし、このTシャツを購入してよかったなと思った。馬場さんも買ったばかりの帽子をかぶっていたが、これには誰も特に反応は示さなかった。
写真下左:パリ市内で仲間たちと、一番左が前日に買ったTシャツを着た僕 右:買ったばかりの帽子をかぶった馬場さん
Tシャツを着た僕 帽子をかぶった馬場さん

 さて日本へ帰ってからも普段着として着ていたが誰も何も言わなかった。その後サッカーワールドカップが始まった。日本が予想外に勝ち進み、サッカーにあまり関心がない僕もテレビに釘付けになった。しかし日本が対ベルギー戦で惜しくも負けた後は見なくなり、ニュース番組でどの国が勝ったか知るくらいだった。W杯がフランスの優勝で終わって1週間後、偶然あのTシャツをカルチャーセンターの授業に着ていった。

 カルチャーの教室へ入るとすぐに、僕のTシャツを見て驚きの悲鳴を上げたのは、フランスで残り物のろくでもないTシャツを買ったとケチをつけたサッカー通のおばさん生徒だった。
「先生、そのTシャツ、あのエムバペだったんですね。今、ネットで売りに出せば数万で売れますよ。W杯前に日本で来ていたのは先生ぐらいですよ。少しくたびれているのもかえって値段を高めます。エムバペは19歳だけど10代で決勝戦の中、得点を奪ったのはサッカーの神様と言われるペレ(当時17歳)以来です。やはり先生には妖怪が乗り移ってます。すごいですね」と自分がフランスで発した蔑視発言を妖怪話に置き換えて逃げ切っていた。

 その日の夕方、帽子を買った馬場さんも偶然我が家へやってきて「先生、あの時買ったTシャツ、エムバペだったんだよね。僕はあの時パリのサッカーチームの帽子を買ったよね。そのこともありフランスVSクロアチア戦は眠い中、最後まで見ていた。翌日帽子をかぶり喫茶店に行ったら帽子をかぶっているだけで、僕はヒーロー扱いだった。帽子ですらそうだから、先生はもっとすごかったでしよう」と言った。

写真下左:エムバペのTシャツ全面 右:背面
エムバペのTシャツ前面 エムバペのTシャツ背面 

 僕もテレビのニュースを見ていてフランスの19歳の選手がものすごい勢いで走り、ボールをゴ―ルに決めるのを見ていてその群を抜いた凄さに感動はしていた。でもそれが僕のTシャツの選手だったなんて思いもしなかった。僕がTシャツを着てシャンゼリゼを歩いたときのことがよみがえった。でもあの時はW杯前だったから今ほどエムバペ選手が騒がれていなかっただろうけど、フランス人は彼のことをよく知っていたのだろう。それにT シャツをよく見るとパリ・サンジェルマンFCの文字があり、パリっ子にとってはまさに地元のチームだから、みんなぼくのTシャツを見て興奮したわけだ。

 そのことが分かり喜んだ僕は、すぐさまそれを着て藤井達吉美術館の「長谷川利行展」のオープニングに出かけた。中年以上の招待客が大半を占めて数百人はいたけれど誰も僕のTシャツには気付かなかった。やはり日本ではサッカーファンではない限りまだ誰も気付いてくれないようだ。でもこんなうれしい偶然に出会えて感激だ。これから外出するたびにこれを着ていこう!




カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

最新記事
カテゴリ
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR