中部地方の最高の芸術家、岩田信市氏亡くなる

中部地方の最高の芸術家、岩田信市氏亡くなる

本日8月7日(月) 19時~ お通夜、翌日8月8日(火)1時半 葬儀
吹上愛昇殿・千種区千種通り6-23-1 ℡ 052-571-4444


 謹んでお悔やみ申し上げます。岩田氏に関しては3年ほど前から大腸がんを患っていると聞き、気にしていたが、病に負けたようだ。大きな図体で病気など蹴散らしてしまうような人柄であったが。昨夜高校教師の一人息子から連絡が入った。
石を担いだ岩田氏の息子
 今から45年ほど前、尾張富士の霊祭、石上げ祭りで僕のつくった巨大な張りぼて石を僕の代わりに運び上げてくれたのが当時小学生だったその一人息子だ。
写真右:中央で石を担いでいる少年が岩田氏の息子、左横はゼロ次元のメンバー

 僕はその頃張りぼての石をたくさんを作り、現代美術作品として様々な場所で芸術行為(パフォーマンスアート)をしていた。その一環として尾張富士の石上げ祭りに参加すると話していたら、ゼロ次元(岩田信市が立ち上げた前衛芸術家集団)のメンバーも手伝いたいということで、一緒に参加することになった。そのついでに岩田氏の息子さんも参加したというわけだ。霊祭に張りぼての石を大人の僕が担いだら、神を冒涜するのか、ふざけるなと言って殴られそうであったため小学生だった息子さんに頼んだのだ。

石を運ぶゼロ次元のメンバー
写真左:石を担いで運ぶゼロ次元のメンバーと僕
 ところがゼロ次元のリーダーである岩田氏は当日突然キャンセル、仙台でヨネヤマママコ(パントマイムアーティスト)が企画したアートパフォーマンスに参加するとのことで行ってしまった。60~70年代アメリカのヒッピーの間で流行していた裸で一週間ほど過ごす芸術行為だ。石上げ祭りに息子とともに参加した奥さんはかんかんに怒っていた。


 岩田信市は戦後の愛知で河原温や荒川修作と並ぶトップの芸術家と言っていい。旭丘高校の美術科の頃、同年だった荒川が彼を尊敬し、恐れたとも言われる。高校生であの大須事件にも絡み、また彼は僕と3人(もう一人は元テレビ愛知の副社長)で、例のごみ裁判で原告側で共に闘った仲間だ。日本で最初のストリーキングをしたり、日本の絵画史の1ページにもなったゼロ次元の中心人物でもあった。晩年は大須演芸場でロック歌舞伎を立ち上げこれまた評判となった。
 もし彼が東京か大阪にいたなら、その存在が輝いたであろうが、保守的な名古屋においてはことごとくつぶされたのが残念だ。母一人を置いて出られなかったのであろう。
 先日近藤文雄氏が亡くなり、岩田氏が亡くなった。僕がこの地のよきライバルとして認め尊敬していた二人が去ってしまった。もう名古屋には全国で通用する画家は一人もいない。岩田氏は豪放磊落、人好き合いが下手で、お世辞が言えないタイプだったが、人を妬んだり陥れたりするようなところが全くない人柄だった。静かに別れをしたいと思う。
 彼の芸術活動を示す写真を載せたい。若い人達でアートの分かる人なら名古屋地方の人でも、この作品を見て彼の業績を理解してもらえると思う。ルネサンスで芸術が開放的になり、絵画に裸体画があふれたように、1960年代は戦後の復興時期で文化芸術が従来の因習から解放され、芸術活動にも肉体の開放が叫ばれたのだ。とはいうものの日本ではまだまだ奇異な目で見られていた頃、名古屋からそれを発信したのだ。しかも50年以上前にやっている。岩田の先進的な行動力がわかる。

ゼロ次元のアートパフォーマンス
 この岩田の芸術行為は1972年に発売された講談社『現代の美術』全集の11巻「行為に掛ける」に草間彌生や関西の具体美術家、外国ではデュシャン、クリストらの芸術行為と並んで掲載されている。
写真右:講談社『現代の美術』全集の11巻「行為に掛ける」に掲載されたゼロ次元のアートパフォーマンス

草間彌生ニューヨークでのアートパフォーマンス
写真左:講談社『現代の美術』全集の11巻「行為に掛ける」に掲載された草間彌生ニューヨークでのアートパフォーマンス
 戦後から現在に至るまで、現代美術の全集刊行はこの講談社のものしか存在しない。それからも分かるように現代美術が最も隆盛を誇ったのは60年代であり、現代美術を総括して語るなら60年代にこそアートの全てが凝縮されていたと言っても過言ではないと僕は思っている。

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国立国際美術館でブリューゲルの『バベルの塔』を見る

国立国際美術館でブリューゲルの『バベルの塔』を見る

バベルの塔展パンフ

 ブリューゲル作『バベルの塔』を見に、大阪の国立国際美術館へ行ってきた。内覧会への招待参加だったため、一般の公開のように込んでおらず、『バベルの塔』の絵の前で5分ほど落ち着いてじっくりと観ることができた。あの壮大なバベルの塔を描いたこの絵は、一般の予想に反してかなり小さくサイズは59.9×74.6cmしかない。こんな小さな画面の中に壮大なスケールの構図と細部の緻密な描写を見事に融合して描いている。地平線まで見渡す風景をバックに聳え立つ巨塔、その中に建築現場や港、そこに寄港する帆船、働く人々など米粒より小さな人々が1400人も描かれているのだ。もちろん数えたわけではなく解説で知った。      

 1か月ほど前にもNHKの日曜美術館で『バベルの塔』の特集があり、それも見た。テレビでは細かい部分をクローズアップしてくれていた。凄いのはクローズアップしても全く鑑賞に耐えうる筆致だったことだ。想像を絶するほど緻密に描かれたディテールの正確な描写は驚き以外の何物でもない。実物を見てもそれは実感でき、全体の構図の素晴らしさも実感できた。やはり実物は一見の価値がある。

 実はブリューゲル(1526?~1569)は僕の大好きな作家の一人で大学の2年の折には、もう彼の作風を真似て描いていた。と言ってもその時に僕が惹かれたのは『バベルの塔』作品ではなく、彼の中期の作品で化け物か怪物かといったような実在しない異形の生物が描かれた作品である。

写真下:ブリューゲル作「冥府に下るキリスト」より部分
ブリューゲル作冥府に下るキリストより部分 ブリューゲル作冥府に下るキリストより部分 (2)


 僕が今やっている妖怪画のルーツはここにあったともいえる。顔と腕だけの人間だったり、自分の背中に自分で剣を通したりと僕の50年以上前の餓鬼草紙シリーズに似ている。このような絵は人間の思考の原点だから、時代を越えて存在し続けると僕は考えている。そしてそれは「人間とは?」「生きるとは?」という人間の本質に対する問いにつながる。

写真下左:ブリューゲル作『大食」より部分  
右:ブリューゲルの絵からヒントをもらった僕の金シャチ妖怪

ブリューゲル作大食より部分 金シャチ妖怪

 今回の目玉作品『バベルの塔』は僕が惹かれた妖怪画とは画風が違っている。僕はこの絵を見て、ブリューゲルは自分の絵画人生の集大成としてこの絵を描いたのではないか、言い換えるなら画家として人生に挑戦し続けるのをやめたのではないか、さらに言えば死の準備に入ったのではないかと思った。
 多くの画家は創ることに疲れ人生の終着を意識すると、終活として数百万円もする自作全画集を作ることが多い。だが僕の周辺では画集を作った後、彼らは数年でほとんどが亡くなっているような気がする。自作画集を作り出版してしまえば、もうこれ以上作品を新しく描いても画集に入れることはできず、結局何もせず死を待つだけとなるのだろう。
 『バベルの塔』は画集ではないけれど聖書の逸話をテーマとして、ものすごい入れ込みようで描いているから、僕には人生の最後を飾る全集のように感じられたわけだ。実はブリューゲルは今回展示されたものの5年ほど前に、もう1つ同じタイトルで『バベルの塔』を描いている。こちらは今回の作品の4倍程の大きさで、画面はより明るい色調だ。塔はまだ完成途中である。もちろん今回展示された作品も塔は未完成だ。あまりに高い塔を造ろうとした人間の奢りが神の怒りにふれ、塔は完成できなかったからだ。それでも5年後に描かれた今回の作品はより完成に近づいている。調べてみるとブリューゲルはこの『バベルの塔』を完成(1568年)した翌年に亡くなっている。僕の感が当たったわけだ。

 「それで山彊先生は未だに全画集を出さないのですね」。そう。まだやりたいことは一杯ある。1、2年後にはこの地方の妖怪画集をまず出すし、ルーブル美術館で展覧会もしたいと思っている。終活なんてやってるひまはない。

画集「わの会の眼」
 僕の作品発表は僕がやらなくても周りが勝手にやってくれるかもしれない。他人がやってくれることは僕の生きる意欲が湧くし、うれしいから元気が出る。というのも実は先日名古屋画廊の中山さんから『わの会の眼』(写真右)という画集が送られてきたからだ。この本は国中の画商やコレクターが自分の手持ちで好きな、売り出したい作品を1,2点選んで持ち寄り1冊の本に載せたものだ。名古屋画廊は僕だけに絞って2点を文章付きで載せてくれている。これはすごくうれしい。その1点が僕の50数年前のブリューゲルに似た妖怪画であったのだ。そんなわけで自分で全集を出す気持ちはまだない。


写真下:『わの会の眼』に紹介された僕の作品と解説
紹介された僕の作品1 紹介された僕の作品2

 ところで国立国際美術館の内覧会だが、ここ大阪では5時半から始まり、会場へ入ったらすぐ自由に作品を鑑賞できる。式典は暫くしてから始まる。作品を観ていたい人はそのまま展示会場にいてもいいし、式典に参加してもよい。サンドイッチ等軽食が用意されているので、口が乾いたり小腹がすいていれば式典の方に行けばいい。僕は早めに観賞を終え、式典に参加した。朝日新聞主催でまあまあの食べ物であった。名古屋の場合はなにも出ないし、式典は3時から始まり5時には終わる。職員の勤務時間が優先で大阪のように見学者優先にはならないのだろう。このあたりも文化に対する行政側の姿勢の違いが感じられる。


幻となった父娘「神奈川県美術展」同時入賞

幻となった父娘「神奈川県美術展」同時入賞

神奈川県美術展パンフ
 僕の娘は神奈川県に住んでいて、そこで働いている。先々月のゴールデンウィークに孫を連れてやって来て「来年から育児休暇を終え職場に復帰するともう絵を描いている余裕がなくなる。最後のチャレンジとして神奈川県美術展に出したい」と言ってきた。写真右:神奈川県美術展パンフ

 神奈川県美術展は昨年から全国公募になり、大賞賞金も200万円になった。かなりレベルが上がる筈だ。全国コンクールになるまで娘は数回入選をしている。「お父さんと一緒に出せば賞は取れなくても父娘同時入選、ひょっとすれば同時入賞で(こちらはもう冗談)マスコミが取り上げるかも」とも言われ、そうか、そういう面白さもあるなと思い40年ぶりぐらいでコンクールに出してみた。もう賞は関係ないとしても、自分の作品が今の若者たちの作品に交じって展示されてどう戦えるかを見たかったこともあり、2年前に描いた妖怪画の半分を切って150号にして出品した。
 結果、僕は入選したけれど娘は落ちてしまった。ここで父娘同時入賞or入選が幻となった。

写真下左:僕の作品(一番左) 150号が小さく見える。みな大きな作品ばかりで運搬や保存が大変だろう。
写真下右:自作の前の僕。2年前に描いた作品だ。まあこの作品なら若い画家たちとも十分に戦えると思っている。

僕の作品(一番左) 自作の前で
 
会場風景
写真右:美術展会場風景
 神奈川県美術展は、今日本の美術コンクールの中で一番レベルの高い美術展の一つではないだろうか。このコンクールは外国の美術展や日本の大きな美術展がそうであるように洋画、日本画、版画、彫刻、等を区別せずにそれらをまとめて一つの「平面立体」部門の美術作品として審査をするのだ。(全部で4部門があり、他は工芸、書、写真だ)こうなると創造性に乏しい日本画等の伝統芸術は他の作品と勝負できず、100点弱の入選中2点程しか入っていなかった。他のファイバー(織物)アートやキネティック(電気)アートといったものも見本として1点が入っているにすぎなかった。版画も小さくて見ごたえがなく3点程の入選だった。
 その中に僕の版画教室の生徒が一人っていた。彼女は今年、春陽展で大賞をもらい、世界で一番入選がむつかしいと言われる高知国際版画トリエンナーレにも今年入選した。版画のレベルは日本が世界で一番と言えるので日本で一番ということは世界で一番ということになる。その日本でもかつては東京国際版画ビエンナーレ、和歌山国際版画ビエンナーレ(1985年の第一回和歌山国際版画ビエンナーレ展で僕は大賞を受賞した)という世界に通用する版画展があったが、それらがなくなって今は高知国際版画トリエンナーレが難関の版画展として残っている。
 この高知国際版画トリエンナーレには彼女以外に3人、僕の教室の生徒が入っている。「山田教室は何故次々と賞を取る版画家を輩出しているのですか」といった質問をよく受ける。それは皆さんやる気ある人が多いからだ。けれど僕の教えることも少し影響しているかもしれない。いろんな美術教室で教えるほとんどの先生は自分の作品の真似をさせるだけの人が多い。もしその先生のレベルが大したことがない場合、生徒はそれを越えられないのでどうしようもない。私は人のやっていない技法を紹介し、芸術は模倣でなく創造であると言う当たり前のことを教えているだけなのだ。

 ところで神奈川県美術展だがこの創造の精神で審査が行われていると言ってよい。凄くうまいけれどどこかで誰かがやっていたと思われるものはほとんど入っていなかった。下手だけれど可能性があり自分の世界を持っている作品や超個性豊かなものが入っていた。

大賞作品 準大賞作品
写真上左:大賞作品(小学生が描いた様な作品だ。僕は斬新で面白いと思う。けれど名古屋のほとんどの画家は美術の最先端の動向を勉強しようとしないからこの受賞に同意できず戸惑うだろう)
写真上右:準大賞作品(2メートルほどの大きさで誰かの真似をしたものではない。これも一般の彫刻家は理解不能だろう)


 ここでの大賞作品や準大賞作品などは、もし日展、二科展と言った公募展に応募していたら真っ先に落とされるだろう。逆に日展や二科展等公募展の作家はこのコンクールでは誰も入選しないであろう。僕の娘の作品はかなりうまく公募展なら賞を取っただろうが、このコンクールではいまいち個性に欠け、選を逃したと思われる。普通の美術展、あるいは地方の美術展ならこれで文句なく入選だが。神奈川県美術展を甘く見た。

写真:会場内の作品群
下左:牛の彫刻(製作費だけでも100万円はするのではないか)
下右:額縁にボロ?布を巻いた作品

牛の彫刻 額縁に布を巻いた作品

1960年代、世界的な芸術の新しい波が押し寄せ、日本でも現代美術の革命が興った。次々と新しいアートが生まれ、ヒーローアーティストが現れたが、今はそれらのアイデアを焼き直して使い、うまくまとめて描くだけになっている。その停滞に気付いた若い芸術家やその関係者たちがこれからの新しい美術の歴史を創っていくのではないか。その変化の片鱗をこの美術展で垣間見た気がした。

大きなおにぎりのような石の彫刻作品
写真左:大きなおにぎりのような石の彫刻作品

インドネシアのバリへ妖怪に会いに行きませんか

インドネシアのバリへ妖怪に会いに行きませんか

 今年5月に開催したサンクトペテルブルグでの美術展から帰ってすぐ、教え子たちが「バリ島で日本とインドネシアの芸術交流会を行うので先生、代表をやってくれませんか。仕切る人がいないんです」と言ってきた。当然僕は断った。ロシアから帰ったばかりだし、10月には2週間に及ぶソウル個展があり、11月にはチェコの日本人祭に参加して作品を出せと言われているしと、ものすごいスケジュールだ。「先生の予定が入っていない日に合わせるから、何とかして」と泣きつかれ、結局代表も引き受け9月に出かけることにした。教え子に頼まれると嫌と言えない僕の「教え子ファースト」の信条を教え子たちは知っているのだ。

 だが突然のことで参加メンバーが10人程足りない。いつも僕の企画する海外の美術展に参加してくれる教え子の多くはロシアのサンクトペテルブルク展に参加したばかりなので、海外にこんな短期間に続けては出掛けられないし、これ以上留守にして家族に迷惑をかけられない、ということで参加は無理だ。


バリ募集案内

 というわけで今回のこのブログは芸術交流会を兼ねたバリ旅行のお誘いです。このブログをご覧になった方で上記の芸術交流会に興味があって行ってみたいと思われた方はぜひご参加ください。男性の方で僕と相部屋でよければ、宿泊費が半額になるし、僕も助かります。写真では読みにくいかもしれませんので下に重要な点を書いておきます。

日時:9月20日〜9月24日(現地3泊5日間)
費用:178,000円(運賃と宿泊代、参加費用)
主催:愛知芸術文化協会
申し込み:日通旅行(株)/受託販売:(株)エヌ・ティ・エス(052-231-7576)
担当:篠田さん
※出品作品の大きさやスタイルは自由です。勿論観光だけでもよろしいです。


 さていろいろ経緯を述べたが、だからと言ってバリへの旅行は、いやいや行くわけではない。僕はこれまで数回バリを訪れたがとても楽しいところだ。

写真下左:バリの家の庭先におかれた像、笛を手に持っているようなので音楽家の家かもしれない
写真下右:門前の神様の彫刻と僕

バリの家の庭先 バリの家の玄関前の妖怪像 

 町の中の家々の門の前には神様、はたまた妖怪のような絵画や彫刻、レリーフなどが飾ってありそれらを見るだけでも興味深い。バリの人々にとってこれらの‘妖怪’は家の守り神でありガードマンでもあるのだろう。でも僕の目から見るとこれらは完全な妖怪だ。

写真下左:バリの浜辺にあった小舟、舳先が妖怪の顔になっている
写真下右:街中の市場で売られている豚の丸焼き

バリの浜辺にあった小舟 豚の丸焼き

 前回のブログでも書いたが僕は2年後に妖怪の画集を出そうと思っているので、もう一度バリを訪れて‘妖怪たち’に再会し僕の妖怪画にプリミティブなイメージを加えられたらと思っている。
 僕が名古屋の妖怪を大きく油絵で描く気になったのは、アマゾンの2017年上半期全国和書販売ベスト20に僕の『名古屋力・妖怪篇』が入っていたことが一つの要因だ。何十万何百万の本が書かれ出版されている中で、これは夢のような話だ。僕の妖怪が市民権を得たのだろうか。だとすれば、『名古屋力・妖怪篇』の文の挿絵として描かれた妖怪画を本格的な油絵でより大きく描いて妖怪画集を出版すれば、よりリアルな妖怪が楽しんでもらえるのではないかとも思っている。

 ところで僕の家の応接間の壁には40個近いお面が飾ってあるが、その中の1割はこのバリで10年以上前に購入してきたものだ。
写真下
我が家にあるバリのお面1 我が家にあるバリのお面3

我が家にあるバリのお面2
 僕が病気もせず、作品を創り続けられるのはこれらの妖怪が僕を守っているからかもしれない。日本の家の玄関には邪悪な者から家を守る門かぶりの松を植える風習があるが、これもバリの玄関先にある妖怪たちと同じ役目をしているのではと思っている。



画家、近藤文雄さん亡くなる

画家、近藤文雄さん亡くなる

近藤さん自画像
 絵描きとしての僕の最高のライバルだった近藤文雄さんが6月15日に亡くなった。
写真右:近藤さんの18歳の時の自画像
6月17日に葬儀参加のため豊川まで行ってきた。つい3か月程前、彼の教え子の宮本さんの個展で元気な姿の彼にあったばかりだった。葬儀場では、奈良美智を早くに発掘し彼の個展をやった白土舎のオーナーである土崎さんにもお会いした。近藤さんを認め最後まで支援した画商界のプロだった。

写真下:宮本さんの個展会場で 左から宮本さん、近藤さん、宮本さんの作品、僕
左から宮本さん、近藤さん、作品、僕

 近藤さんは僕の大学の1年先輩ですごく気になる存在だった。1960年代は彼の全盛期で美術雑誌には彼の作品が度々載っていた。
 60年代は戦後の日本が高度経済成長を目指して突っ走っていたひずみから、東大紛争に代表される学生運動がおこり、それに連動してアングラ演劇や前衛芸術など反体制のカウンターカルチャーが全盛となった時期だ。僕は日本の現代美術の真の誕生は1960年代で、日本の現代アートの礎が作られたのもこの時代だったと考えている。
 当時新進気鋭の画家たちは、旧来の年功序列の徒弟制度的美術公募展を無視するようになり、やる気のある画家のほとんどはフリー宣言をした。僕も1962年には公募展を脱退し個展を中心に動きだしていた。だからフリーで活動する近藤さんの動きはすごく気になっていた。

スキー場にて 講談社の世界現代美術全集に載った僕の作品の次のページに彼も選ばれて載っていた。この愛知では二人だけであり、その意味でも彼は僕の最高のライバルであった。
 大学時代には、僕の好きな先輩の丸顔でふっくらしたスキー好きの勝埼さんを彼も好きで、大学時代からの恋のライバルであった?とも言える。
写真右:近藤さんの好きだった彼女(上段中央の僕が肩に手をかけている女性)

 「この地には庄司達さんや斎藤吾郎さんと言った芸術家もみえるのではありませんか」。2人もすごいが彼らは1970年以後に登場してきた人達だ。近藤さんと同列に比べることには無理がある。1970年に開催された大阪万博はあらゆるものを呑み込んで学生運動やカウンターカルチャーは収束に向かっていった。70年代は美術史の中では大きく扱われない時代だ。

 葬儀場で出会った彼の教え子から「山田さんも近藤さんを気にしてたけど、彼もあなたのチャレンジ精神や多くのコンクール展で次から次へと賞を取っていたことに、すごいなあと感心してましたよ」と言われた。

 もう一つ彼について思い出がある。例のごみ裁判事件(後輩の美術学生たちが愛知県美術館にごみを彼らの美術作品としてを出品し、美術館側がそれを撤去したため裁判沙汰となった事件)に関してだ。僕が怯えながらも学生たちのために裁判証言を引き受けたのは評論家の針生一郎さんと近藤先輩も証言を引き受けたからだ。ところが近藤先輩は裁判の前日、体の調子が悪いとか連絡をしてきて裁判当日は欠席してしまった。これに僕は超、超、仰天した。これから僕に何が起こるか予測できたからだ。彼は愛知県知事(裁判の被告)相手に戦う恐怖に耐えきれなかったのだ。それは保守的なこの地の全てからいじめられ疎外されることを意味していた。名古屋の僕ですら恐怖したのだから、もっと田舎に地盤がある彼の行動は分からなくもない。けれど彼が証言を放棄したその分、僕に体制側からの圧力、いじめがかぶさることになった。だからその分なおさら許せなかった。このことがあってから彼は僕にとって尊敬する先輩からただの絵描きのライバルになったわけだ。60年代すでにその作品が大きく認められた彼としては、そんなこともあり次へのチャレンジをしなくなり、守りに入ったと僕は感じていた。
 
 一方この裁判で僕はこの地の全絵描きや美術関係者から無視されることになった。僕は四面楚歌の中で雌伏十数年、起死回生を試みて様々なチャレンジを続けた。しかしこれが今になってみるとよかったかなと思っている。裁判がなかったら1960年代の自分の功績に甘んじて、再チャレンジはなかったかもしれない。

 しかしいずれにせよ彼が亡くなったことはこの愛知県の芸術界にとってすごくマイナスになるのではなかろうか。彼には名古屋学芸大の小笠原教授や著名な版画家の土屋氏、山口氏と言ったすごい教え子を残しているから、ただ亡くなったと僕は思いたくない。
 最近僕の周りを見回すと60年代の激動の美術界を生き、その深層までを知っている絵描きはもうほとんどいなくなってしまった。今では僕が60年代の生き証人になってしまったかもしれない。

日本中の大きな美術館に彼の作品はコレクションされている。いずれ作品でもう一度彼に会えるのを楽しみにしている。
写真下左:愛知県美術館収蔵の近藤文雄作品  右:名古屋市美術館所蔵の彼の作品
愛知県美術館収蔵作品 名古屋市美術館収蔵作品


※悲しいこともあったが、最近僕にはいい驚きがあった。パソコンで近藤さんの活躍を見ていて、ついでに僕のコーナーも見たら、4年前に出版した「名古屋力・妖怪篇」(ワイズ出版)が2017年上半期売り上げ全国和書ベスト20傑(アマゾン発表)に載っていたことだ。これは何かの間違いではと思って、他も調べていたらその2年前に出版した「名古屋力・アート編」(ワイズ出版)の2,200円の新本が何故か26,724円になっていた。
写真下左:名古屋力・妖怪篇   右:名古屋力・アート編
名古屋力妖怪篇 名古屋力アート編

 僕が死んだわけでもないのに何故だか分からない。妖怪につままれているような気がする。何かが僕を衝き動かしているのだろうか。ならばと、この勢いで2年後に名古屋の妖怪画集を出すことに決めた。この1か月で60号の大きさの絵を4点描いた。できればで49匹の妖怪を描きたいと思っている。

カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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