サンクトペテルプルクでの僕等の展覧会

サンクトペテルプルクでの僕等の展覧会

 我々のグループは世界各国で美術展を開催している。最近では一昨年にニューヨークでグループ展、昨年はニューヨークで僕だけの個展をした。現代美術の最先端を行くと言われているニューヨークで美術展をやった後は、さて次はどこでやろうかと考え込んでしまった。考えているうちにロシアのサンクトペテルブルクはどうだろうと思い至った。帝政ロシア時代の首都であの有名なエルミタージュ美術館もある旧都だ。
 ロシアは長いこと社会主義であったため古典的写実アートがその主流であった。だが1980年代のペレストロイカの改革解放以降、現代美術がどのような変革を遂げたか気になったし、ロシアにおける京都のような街がそんな中でどのような変貌を遂げたかを知りたかった。

会場となる部屋での展示準備 
 僕は若い頃から様々な美術コンクールに挑戦してきたが、その中でも京都とは相性がいい気がする。京都と言えば日本文化が凝縮されたような街で、現代美術より伝統的なものが選ばれる気がするが、伝統的なものが当たり前にありすぎるからか、逆に最新の現代美術を取り込もうとする気風に満ち溢れている。長きにわたって培われた文化の洗練度が高いから優れたものがわかる鑑識眼もある。サンクトペテルブルクは芸術面で京都に似ているだろうか。そんな気持ちからここを今回の美術展会場に選んだ。
写真右上:サンクトペテルブルグにあるロシア芸術アカデミー美術館2階の我々の美術展会場で展示準備をするメンバー

僕等の展覧会場入口
 またそこで展示する僕らの作品がその街でどう映るか、古いのか新しいのかも知りたかった。僕らの展示会場は街のど真ん中にあり、対岸にエルミタージュ美術館が望めるロシア芸術アカデミー美術館だ。ここは歴史も古く威厳のある建物で非常に広く、敷地内には芸術大学や博物館もある。この中で展示できることはすごく光栄だった。
写真右:我々の美術展会場の入口

美術教授たちの作品展の部屋
 美術館の2階、エカテリーナの間が我々の展示室だが、隣の部屋にはこの街の美術大学の教授たちの作品が50~60点ほど展示されていた。
写真左:美術教授たちの作品が展示された部屋
それぞれうまくまとまってはいるけれど、1900年前後の画風で、かつてどこかの美術館や画集で見た様な作品ばかりだった。アメリカのポップアートやアクションペインティング風の作品(これすら半世紀前の美術だが)にすら出くわさなかった。無論反米感情が強かった当時にはアメリカの美術なんて受け入れたくなかったこともあろう。60年代頃名古屋大学で教鞭をとっていた美術評論家の針生一郎さんが美術の遅れた名古屋を嘆いていたことを思い出す。   

 さて取材に来たロシア人記者はしきりに我々の作品を褒めてくれた。作品のレベルが非常に高く斬新で独創的だ。どの作品もこれまで目にしたことがなったアイデアで描かれている。短期間しか展示されないのが非常に残念だとのことだった。掲載した新聞を送ってくれればうれしいのだが。
 我々のメンバーは名古屋地区中心に活躍しているが、外国や国内のコンクールで受賞や入選を繰り返している者たちだから世界的な目と力量がある。だから隣の部屋に並ぶ美術教授たちの古典的作品群にも僕らの作品は負けていなかった。

 オープニングは日本総領事や日露友好協会のトップ、そしてこの美術館の副館長も来て賑やかに行われた。
写真下左:あいさつをする日本総領事   右:挨拶をする僕
日本総領事のあいさつ  僕のあいさつ
オープニングのセレモニーでは、昨年のニューヨークのハロウィンと同じ赤い着物を着て大宰府妖怪踊りが披露され、その後名古屋の現代舞踊家のこかチちかこさんや夜久さんが踊って会を盛り上げてくれた。
写真下左:大宰府妖怪踊りを練習するメンバー  右:バックのスクリーン投影効果を生かしたこかチさんのダンス
オープニングでの妖怪踊りの準備 こかチさんのダンス
写真下:セレモニーの後記念撮影をするダンサー兼画家達踊りを披露したメンバー達

街行く人にビラを配るおばさん画家達
 セレモニーの後、赤い着物を着た10人程の女性画家たちはその格好で街に繰り出し、我々の展覧会パンフを人々に渡していた。ここでもニューヨーク同様人々の注目を大いに集めていた。
写真右:通行人に展覧会のパンフを配る女性達

 話は飛ぶが、僕は名古屋を面白くするために名古屋版ハロウィンを考えている。昨年のニューヨークハロウィン参加以降これを名古屋でもやれないかなと考えていたのだ。今回サンクトペテルブルクでも張り切っている彼女たちの姿を見てその思いがよみがえってきた。僕の考えでは、それぞれ変装した人達が大須観音を出発点にして商店街を歩き、栄で解散する。その先頭を10人の画家おばさんを歩かせる。妖怪と大須はうまくマッチするのでその出発点にバッチリだ。これは面白くなる。大須で画家としても活躍する刺繍業の馬場さんは子供会のリーダーをやっていて、大須の人も乗りやすいのではないか。彼はテレビに出たりして最近大須での人気も高い。本当は大須ういろうぐらいが中心となって引っ張ってくれるとより盛り上がると思うが。昔はこのような役を大須ういろう社長の山田昇平さんが率先してやっていた。

エルミタージュ美術館玄関
 展覧会の最中、対岸にあるエルミタージュ美術館も訪問した。写真左と右下:観光客で賑わうエルミタージュ美術館
エカテリーナ2世がドイツから作品を買い集めてこの宮殿にコレクションとして飾ったのが始まりだが、彼女の死後美術館となった。レーニン革命後は各貴族から没収した作品が収蔵されたというから、その作品の種類も豊富で310万点の所蔵作品があると言う。中でもイタリアルネサンスのダビンチやラファエロ、カラヴアッジオ、オランダを代表する画家レンブランドなど各国を代表する超有名作品が所狭しと並び、ロマノフ王朝女帝の強大な財力と美術鑑識眼に驚かされる。

エルミタージュ美術館内の豪華な部屋
 ここはまるで別世界だった。パリのベルサイユ宮殿も豪華ですごいが、ここはもう入り口から度肝を抜かれる豪華絢爛たる建物で、一部の隙間もなく金箔の装飾で埋め尽くされているという感じだ。そこの壁や廊下に美術作品が飾られていても、その迫力に負けて人々の印象に残らない。印象に残るのは特に有名で我々がよく知っている作品を目にした場合だ。

 これは絵画作品の大半を占める肖像画を絵の中だけで見た場合も同じことが言える。高価な衣類、豪華な調度品の中に描かれた人物は、これらの衣類、調度品の中に埋没してしまって本人の印象が薄くなるのだ。展示されているエカテリーナ2世の肖像画がそれをよく物語っていた。体中に付けた宝石類、刺繍や絹のドレスに白い毛皮のコートの彼女を後からどんな顔だったか想像しようとしてもぼんやりとした印象しかなかった。
 7月には名古屋にエルミタージュ美術館展がやって来るが、シンプルな美術館の壁を背景に見るとこれらの作品はどう映るのだろうか。

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僕等のロシア美術展 まもなく開催

僕等のロシア美術展 まもなく開催

場所:ロシア、サンクトペテルブルグ ロシア芸術アカデミー博物館、エカテリーナの間にて
期間:2017年5月12日〜14日(サンクトペテルブルク・日本の春フェスティバル公式参加)
協力:サンクトペテルブルク日本国総領事館

ロシア芸術アカデミー博物館
 サンクトペテルブルグのロシア芸術アカデミー博物館を会場にした僕らの美術展が今週から始まる。展覧会の会期は日本国総領事館の春フェスティバルに合わせたものだ。
写真右:ロシア芸術アカデミー博物館 250年の歴史を誇る博物館とのこと 我々の展示会場となるのは本館2階「エカテリーナの間」

 サンクトペテルブルグはピョートル大帝の命によって建設された人口の都市で1914年まで帝政ロシアの首都であった。人口が100万人を越え、北のベニスとも称せられる都市で40程の島々で出来あがっている。フランスのナポレオン軍による進撃の折に、街は焼かれたけれど占領されることはなかったので、英雄都市と呼ばれている。僕らが展覧会をする所はネヴァ川をはさんでエルミタージュ美術館の対岸にあるところだ。エルミタージュ美術館はエカテリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室がその起源だが、我々の展示室の名前「エカテリーナの間」が彼女と関係があるかどうかはよくわからない。
写真下左:エルミタージュ美術館内部  右:エカテリーナ2世
エルミタージュ美術館内 エカテリーナ2世

ロシア美術展ポスター
 僕等の美術展のポスター(写真右)は僕がデザインしたものだ。これは僕のニューヨークの妖怪展の作品を少し変えたもので、蝙蝠妖怪の帽子の部分が赤中心のサンクトペテルブルグの市のマークに変わっている。ご存知北斎の「神奈川沖浪裏」をベースにしたものだが、世界中で知られている北斎の作品を使うことによって、日本への親しみを感じてもらえるのではないか、また北斎をきっかけに話がはずめば、日露友好にもつながるのではないかと思っている。北斎の波と40程の島からなるサンクトペテルブルグの街とはそれぞれ水つながりで相性がいい。このポスターで日本とこの街の融和が図れたらとも考えて制作した。
 ところでポスターに記載されている出品者全員の名がロシア語のため全然分らないのは残念だが、自分の名前がロシア語になるなんて、まあほとんどあるはずがないから面白いのではないかと思う。日本人の海外旅行先としてはロシアに行く人は比較的少なく、そこで美術作品を展示する人はほとんど皆無に近いのではないだろうか。人があまりやっていないことに挑戦するのは楽しい。

 展覧会のオープニングではモダンダンスのこかチちかこさんたちがダンスのパフォーマンスをする。昨年、ニューヨークのハロウィーンパレードに真っ赤な着物の衣装で参加した女性陣と僕たちは、また九州・大宰府の巫女さんの娘である倉掛さんを中心に赤い着物を着て巫女の踊りをすることになる。僕は作務衣をはおり妖怪人形を竹竿にさして先導することになるはずだ。サンクトペテルブルグに初めての日本の妖怪の出現となる。

巫女の踊り 神の踊り
写真上:大宰府の巫女の踊り(左)と神様の踊り(左)をアレンジしたもの 台湾にて
ニューヨークのハロウイーンでの踊り
写真上:ニューヨークのハロウイーンでのパフォーマンス

 「山彊先生とその生徒さんは皆元気があって若々しい。何故ですか」とよく言われる。僕も皆さんも老後を、いや人生を納得して過ごすには常に新しいこと、面白いことをすべきだと思っている。そのためには刺激ある目標、希望をもつことだ。だから僕は今後の予定を次々と打ち立てている。
 我々のメンバーは誰も人生から、そしてその目標から逃げようとはしていない。何があっても前向きに進んでいる。絵を制作したりパフォーマンスやダンスをしたりするけれど決して時間つぶしでやっているのではない。暇で時間を持て余すから海外旅行とか、絵を描く、ダンスをするのではなく目的をもってやっているのだ。これらの行為で常に「人生とは、生きるとはどうゆうことか?」を探り続けているつもりだ。


「山田彊一ソウル個展」の準備で韓国へ

「山田彊一ソウル個展」の準備で韓国へ

ロッテタワー下の散歩道
 今年の10月にソウルで僕の個展をすることになっており、その打ち合わせのためつい先日韓国を訪れた。名古屋の桜はほとんど終わっていたが、ソウルの桜も散りかかっっていた。個展会場となる画廊のすぐ近くにあるロッテタワーの前の巨大な池の周りは、桜が昨夜の雨で散ってしまっていた。
写真右:桜が散ってしまったロッテタワー周辺の散歩道

 ギャラリーのオーナーが言うところによると、昨日雨が降るまでは大変な花見客で歩くのも大変だったそうだ。「日本の花見習慣が伝わったのですか」と僕は尋ねてみた。「とんでもありません。日本のまねではありません。桜のルーツは韓国ですよ」と言われてしまった。以前は日本に対する反感から、日本を連想させる桜や桜見物を嫌っていたと聞くが、昨今の韓国民は桜が韓国から日本に渡ったことを言い分けとして、堂々と花見に興じる様になったようだ。まあ日本のように桜の下での酒盛りはないようだが。

 先日ある会合で日本文化に詳しい安田文吉さんに会ってそのことを話したら「それは間違いだよ。桜は日本の固有種で、だからこそ長い歴史の中、歌や詩、絵画にも登場しているのだよ。韓国にはその歴史はない筈だ」と言われた。しかし気になって調べてみると植物種としてのサクラの起源はネパールでそれが中国→台湾→日本、あるいは中国→韓国→日本と伝わり、確かに韓国の方が日本より先なのだ。ただ日本のような桜をめでる古来からの風習は日本特有のもののようだ。日本も韓国もたくさんの人が出掛ける桜見物の桜はほとんどがソメイヨシノでこれは日本で交配され作られたものだ。

南山ソウルタワーからの桜 
韓国人にとっても桜は美しいから観賞の対象になるのは全く自然なことだが、戦争で生まれた日本への憎悪が日本人の好む桜観賞をよしとしなかったのだろう。なんでも韓国の各種の自治体や営利団体が観光客を誘致しようとして≪桜韓国起源説≫を言い出したのだという。

 さてその後、ロッテタワーを右手に確認しながら次に地下鉄で、桜並木が残る丘の上にある南山のロープウエイに向かった。ここは丘の上だけあって桜がまだ残っていた。
写真左:南山の頂上から見るソウルタワーと桜

 頂上に着いてまず驚かされたことがあった。公園の柵一面に南京錠が無数にかかっているのだった。合わせて数十万個はあるのではなかろうか。近くに錠を売る店屋もあり1個700円位で販売されていた。まるで桜ならぬ南京錠の満開であった。「山彊先生、それは桜のようにきれいでしたか」。とんでもない。異様な生命体が異常に繁殖したかのようで、気分を害する景観になっている。
モンスターのような錠の塊 写真右:モンスターのような南京錠の塊

 次に僕が思ったのは、いくらの無駄金が南京錠となって吊るされているかということだ。10万個と少なく見積もっても10万×700=7千万円となる。永遠の愛のシンボルとして南京錠を吊るすのは日本(例えば近くでは愛知県の知多半島にある野間の灯台)や外国でもよく見るが、ここほどびっしりと密集しておらず、まあほほえましいなと許容できる範囲だが、ここでは南京錠が巨大なゴミモンスターとなって迫ってくるようだった。

写真下右:南京錠を売る店  
左:愛知県知多半島のある野間の灯台に掛けられた錠

南京錠を売る店 野間の灯台と鍵

 さらに気になったのは、錠はフェンスに掛けるとしても、それについている鍵の処理だ。恋人たちは永遠に別れることがないよう南京錠にしっかり鍵をかけ、その鍵を山の上から投げ捨ててしまうようなのだ。鍵も数百個ならまだいいが数万、数十万となると地面を覆って草木も生えなくなってくる。そのため公園の隅に鍵の回収箱が設置されるようになった。けれどここに捨てるカップルは少ないらしい。
 「韓国人男性は性欲が強いので、女性に気にいられる努力を人一倍する」と言われている。そのために、こんなおまじないのようなことを彼女とするのだろうか。
 だが調べてみると、このような恋の錠かけスポットは世界中にあると言う。先年メキシコにいった折にも教会の中にあったことを思い出した。このようなスポットの人気ベスト5も選ばれているという。以下紹介すると①パリのセーヌ川に架かるポンデザール橋、②ローマのテヴェレ川に架かるミルヴィオ橋、③グアムの恋人岬、④上記したソウルの南山公園、⑤日本の札幌にある藻岩山だとか。こういうデータはひょっとして日本人が調べたかもしれない。日本の男も女に弱くなったし、統計好きだから。ついでにどこがルーツか調べてほしいものだ。

歴史資料館
 さて先ほどの桜の話と関連するが、韓国人の日本に対する憎悪を調べたくなって、西大門近くにあり刑務所が歴史資料館になっている博物館を訪れてみた。
写真右:歴史資料館を訪れた小学生
展示場の壁には日本からの独立運動に加わった韓国の英雄、約5000人の映像が壁紙に刷り込んであった。また日本軍が行ったという拷問部屋も展示してありすごい数の小学生がバスで訪れていた。幼いころから徹底的に反日本教育が行われているわけだ。
写真下左:独立運動家達の写真の壁紙  右:拷問部屋の様子のジオラマ
独立運動家達の写真 拷問部屋
 太平洋戦争が終わった時、僕は小学校1年生であった。その頃の大人のほとんどが朝鮮人を軽視している現場をいつも見ていた僕としては、このようにされてもしょうがないという気もする。たくさんいる小学生が髭を生やしたいかにも日本人と思える僕を見ても、何の敵意も表情にだしていなかったことには安心させられた。

ラスプーチン 10月の2週間に及ぶソウル個展の僕のテーマは「妖怪・イン・ソウル」だ。反日感情が根強い中、ひとつ間違うと大変なことになると今からひやひやしている。この5月中旬には、仲間の皆さんを連れてロシアのサンクトペテルブルクで美術展を開く。僕の作品は「妖怪・イン・ロシア」だ。有名な怪僧ラスプーチン(写真右)を妖怪にした作品創りをしているが、プーチン大統領と名前が似ているから大統領を侮辱したと思われてシベリア送りになったらどうしようなんて思っている。



花見と妖怪

花見妖怪

 お花見シーズンも終わり桜は散ってしまった。いつもこの頃になると、一抹の寂しさを僕は覚える。僕もいずれ散って死を迎える。桜と違って散ったらどうなるのだろうか。あの世はあるのだろうか。ある筈ないよね、などといったことを考えてしまう時期でもあるのだ。

岩木山と満開の桜
 以前桜まつり見学を兼ね弘前の友人を訪ねたことがある。彼方に岩木山を望み、咲き誇るソメイヨシノは名古屋で見るお花見なんて問題にならないほど素晴らしかった。写真右:満開の桜の向こうに姿を見せる岩木山
 花びらが乱舞する花群の間から覗く岩木山は仏教でいうあの世の山、須弥山にも思われた。まるで天国の園のようだ。だが須弥山には天国もあれば地獄もあると言われている。とすると地獄はどこにあるのか。

弘前桜まつりお化け屋敷
 この花見に浮かれる僕を驚かせたことがある。桜は岩木山(須弥山)を背景に咲き誇っているのだが、今度はその桜を背景にお化け屋敷の小屋(写真左)が並び建っていたのだ。みたらしやぜんざいを出す茶店ではない。なんと夏祭りに登場するいわゆる「お化け屋敷」なのだ。これが須弥山の地獄なのだろうか。鉢巻をしたお姉さんが客を呼び込み、その後にはろくろ首や生首が並ぶ。
 名古屋人の感覚としてはお花見とお化け屋敷はミスマッチだ。だが弘前の民は桜も待ち遠しいが、化け物屋敷も春を祝う行事として待ち遠しいようなのだ。「山田先生、どうして名古屋のお花見にはお化け屋敷がないのですか」と逆に友人から質問されてしまった。

片山神社の桜
 名古屋辺りでは桜はほとんど散ってしまったが、弘前ではまだこれからだろう。写真右:名古屋の妖怪銀座と言われる尼ケ坂にある片山神社の桜
 ここ数年妖怪にとりつかれて?妖怪画を描いている僕は、僕の妖怪画と弘前のお化け屋敷との不思議な偶然の一致をあの満開の桜とともに思い出したのである。さらにそこから、ひょっとして花見習慣が定着したのと、妖怪話が語られ妖怪画が描かれるようになった時期は同じではなかろうか、つまり花見と妖怪には何か相通じるものがあるのではないだろうかと思い至った。

 では、この花見の習慣はいつから起こったのだろうか。平安前期に嵯峨天皇が催した花見の宴がルーツと言われるが、庶民までが桜見物に浮かれるようになったのは江戸時代からではなかろうか。世の中が平和で落ち着き、ゆとりができると遊び方にも思考が及ぶ。家族うちそろって楽しめる娯楽として花見の習慣が広まった。

北斎百物語之図
 同じ時期、岡場所遊びや賭博に飽きた大棚の旦那衆は平和でさしたる心配もないがゆえに、逆な遊びを考えだす。仲間が集まって恐怖を遊びとして楽しみ始めたのだ。蝋燭を100本立て集まった仲間が怖い話を一つ終えるごとに蝋燭を1本ずつ消していく。いわゆる百物語で、最後に暗闇になると本当のお化けが現れると言われ、その恐怖を人々は楽しんだ。
写真右:北斎百物語之図より

 中国や韓国にはこのような妖怪話がほとんど無い。他国と陸続きの国では何時侵略があるかもしれない。常にそのことに備えねばならない。襲われたらすぐに逃げられるよう金製品をため込んでおく。のんびりと遊ぶ思考はない。島国で社会がまとまっている日本ではそんな恐怖が大陸に比べて少ないゆえに、平和が飽和状態になると逆に恐怖を創り出した。実際に身に危険が及ぶような恐怖ではなく仮想のお化けや妖怪という恐怖だ。人間というのは常に何かの危険に備えたい生き物なのだろう。何もないと自分で作りだすのだ。
 このような理由で江戸の町民文化が栄えた元禄、文化文政の時代に妖怪話がたくさんできた。その頃からお花見も盛んになった。だからお花見と妖怪出現の根は同じで、その陰が妖怪、陽が花見という形をとって現れたのではないかと僕には思われる。

 実は僕が『現代餓鬼草子』というタイトルの妖怪的な絵を描いたのは1962年頃で、これで京都アズマギャラリー記念展の大賞をもらっている。
写真下:現代餓鬼草子シリーズより
現代餓鬼草子

 その後画題はいろいろ変わったが、僕の頭の中には常に生と死の問題が存在しており、2011年頃から再び妖怪に興味を持ち、僕独自のオリジナルな妖怪の絵や文を書き、尾張の妖怪本『名古屋力・妖怪篇』を2013年に出版した。その後僕の妖怪探索&創作は、ニューヨークに飛び妖怪シリーズ2冊目の『妖怪インニューヨーク』を2015年に出版した。この本のために描いた妖怪をさらに大きく描き直し、昨年はニューヨーク個展を開催した。
 ここニューヨークにはハロウィンに代表される様な妖怪はいるが、新しい妖怪はあまり存在しない。今世界情勢は不安定で一触即発の危機が待ち受けているような状態だが、ニューヨークは大国アメリカ最大の都市だから紛争国から見れば平和であり、街がさらに落ち着きを取り戻したら妖怪も出現するだろう。僕のニューヨーク生まれの妖怪がその折のルーツになったらうれしい。そう思って妖怪を創ってみた。

 僕が最初に妖怪を描き始めたのは前述したように1962年、つまり24歳ごろで教師になり生活の安定を得た時だ。尾張の妖怪を描きだした少し後にはテレビで『妖怪ウォッチ』が始まり子供たちに妖怪人気が広まった。『妖怪インニューヨーク』の出版の後には『ポケモンGO』が世界を席巻した。日本の今の妖怪ブームも、ひょっとすると経済優先の政策をするアベノミクスが創り出したのかもしれない。『ゲゲゲの鬼太郎』を水木しげるが描いて当たったのは池田隼人の「所得倍増論」の後しばらくしてからだ。

 弘前の桜祭りには「お化け屋敷」の出し物が定番だと先に書いた。とすると名古屋でも桜の咲くころ「お化け屋敷」の見世物小屋を出すと当たるのかもしれない。その際、大須ういろうが妖怪花見団子や骸骨の顔をした妖怪ういろうでも出せは案外当たるのではないか。たとえ当たらなくてもほぼすべてのマスコミは面白がって取り上げる。無料でいい宣伝ができると僕には思われるのだが。

妖怪★いちご大福ついでに言うと谷中霊園の近く、日暮里駅東側にある和菓子の老舗「江戸うさぎ」では『妖怪イチゴ大福』が売られている。写真右:ちょっぴり妖怪っぽい 妖怪イチゴ大福
イチゴ=春=妖怪の図式が成立するのだろう。


僕にとってのアール・ブリュット 「アドルフ・ヴェルフリ展」に関して

僕にとってのアール・ブリュット 
「アドルフ・ヴェルフリ展」に関して  
於名古屋市美術館  2017年3月7日〜4月16日

アドルフ・ヴェルフリ展パンフ
 今、名古屋市美術館でアール・ブリュット(Art Brut)の原点と言われるアドルフ・ヴェルフリ(1864~1930)の回顧展が催されている。(写真右)
フランス語でBrutは「生(き)の」Artは「芸術」であり、まとめれば「生の芸術」、正規の美術教育を受けていない人が自発的に生み出した、既存の芸術のモードに影響を受けていない芸術ということだ。ビールでいえば生ビールということか。変に味を加えたり寝かしたりした細工のない味と思えばいいのか。
 「お酒を飲まない山彊さん、ビールは変に味を加えるのではなく、おいしくするための工夫をしているのですよ」。分かってますよ。終戦前まで我が家は酒問屋であって、戦時中酒の入荷が少ないと「3割までは水で薄めても酒税法違反にならない」と親父は水で割って販売していた。親父は酒問屋に養子に来たのだが全然酒が飲めず、したがって酒の味もよくわからない。酒が飲めないから養子に決まった親父は酒のみの気持ちが分からないから平気で水を加えたのだろう。無論戦時中の物資不足が大きな要因ではあったろうが。父に似て僕も酒が飲めない。

 ところでアール・ブリュットの存在を最初にはっきり意識したのは僕の30歳の折であった。当時はアール・ブリュットという名もヴェルフリも日本ではほとんど知られていなかったので、僕が意識したというのはアール・ブリュット的な作品という意味でだ。美術大学で僕らを指導してくれた教授は、そのまま写すだけの日展や抽象画が多い春陽会の画家であったため、それらが優れた絵画と教え込まれ、他の作品、例えばアール・ブリュット系の作品に出会っても当時の僕は評価しなかった。
 今の僕は草間弥生の作品もアール・ブリュットの一環として大いに評価している。でも1960年代当時は、彼女のニューヨークでの芸術行為は「頭のおかしい日本の金持ちのじゃじゃ馬娘が裸で街頭パフォーマンスをして目立っているだけ」くらいの認識しかなかった。その頃、芸術家のほとんどに読まれていた「美術手帳」誌でも僕の思考の外に出ることはなかったと思うし、スキャンダラスな扱いはすれ、芸術的価値を評価していなかったと思う。

 これらの作品を完全なるアートとして僕が認識したのは70年になってからだ。それは戦後初の講談社の世界美術全集によるところが大で、その3巻(僕の作品もこの巻に掲載されているが)にあるジャン・ デュビュッフェ(1901~1985)の作品を見てからだ。

写真下左:ジャン・ デュビュッフェ作「バラを持っての小躍り」 右:「帽子の飾り結び」
バラを持っての小躍り 帽子の飾り結び

 子供の様に描いてあるが、何か表現できない幼い頃の原点を見せられているような郷愁を含む魅力ある作品だ。ご存知のように彼がヴェルフリを称賛したアール・ブリュットの提唱者である。

 他に同じ全集の2巻に掲載されている色鉛筆画のゾンネンシュテルン(1892~1982)の作品も普通人の理解を越えたものが僕の心をとらえた。この作家は経歴もアドルフ・ヴェルフリに似ていると僕は理解したが、ものすごく魅惑的だ。

写真下左:ゾンネンシュテルン作 「シュルレアリスム的な構成」   右:「おこない」
ゾンネンシュテルン 「シュルレアリスム的な構成」 1965  おこない
 
ゾンネンシュテルン 
 青木画廊の青木氏がゾンネンシュテルンを訪ねたら、はるばる日本から来てもらったのに何も見せるものがないから、これでもと言ってズボンを脱いで下半身を見せたのは有名な話だ。(写真右)

 アール・ブリュット系の作家は自分の作品が見られることを意識せず、お金を得ようとか認められようとかせず作品を創り続ける者たちだ。だがこのゾンネンシュテルンは見る人を少なからず意識して描いているように僕には映った。誰しもこの絵には目を止めるほど魅力的だ。出版社が画集に取り上げる作品は、画集がたくさんの人に買ってもらえるように視覚的に惹きつけるものを重要視する。世界美術全集にゾンネンシュテルンが選ばれ、すでに評価されていたアドルフ・ヴェルフリが取り上げられなかったのはその違いかもしれない。それ故、ヴェルフリは我々の目に届かなかったのだろう。僕は今回初めて彼の作品を目にした。

 名古屋市美術館が、ここ最近のアール・ブリュット人気が高まる中、満を持してアドルフ・ヴェルフリを取り上げたのはなかなかだ。視覚的に分かりづらい作家だから、生の原稿や作品を見ないとそのすごさが伝わってこない。そんな作家だからこそ展示する意味は十分にあると思う。名古屋の保守性に合わせた展覧会の企画ばかりしていたら、この地はいつまでもローカル芸能から抜け出せない。だがこの視覚的に分かりづらい展覧会に保守的な名古屋人がどれだけ興味を持つか少々心配だ。

ヴェルフリ部分拡大
 さて会場に入りまず驚かされたのは、さらりと見て通り過ぎることができず、作品の前で釘づけにされる自分がいたことだ。「生きるとは何だ」「芸術とは何だ」を考えられされる。文字や数字、幾何学模様の似たような絵柄作品が延々と続く。まるで人生の迷路に踏み込んだようだ。
写真左:ヴェルフリ作品部分拡大

ヴェルフリコラージュ作品
 彼の作品にはコラージュ作品(写真右)も多く、それは1915年ころから始まっている。コラージュというと第1次世界大戦を避けて1916年チューリッヒに集まったダダの芸術家達を連想する。彼らは既成の秩序や常識を否定した運動を起こし、コラージュを主たる技法にしていた。アドルフ・ヴェルフリがダダの作家達からの影響を受けてコラージュを始めたか、ダダの絵描き達が同じ頃スイスの精神病院にいて知られ始めていたヴェルフリの影響を受けたのか気になるところだ。それとも既存の芸術を否定しようという気運が満ちてきたこの時期に偶然の一致が起こったのだろうか。1920年代半ば以降はダダの姿勢や方法論の一端はパリのシュルレアリスム・グループへと継承され、ダダとシュルレアリスムは20世紀の前衛芸術の二大潮流を形成することになる。

 アドルフ・ヴェルフリで僕がすごいと思ったのは死ぬまで作品を創り続けていたことだ。ピカソ(1881〜1973)も同様で亡くなる間際まで作品を創り続けた。僕の周辺の絵描き達は自分の作品が何の需要もなく、死んだら捨てられることを意識した途端に制作を辞めてしまう。死を忘れるために常に何かに挑戦し続けるのが人生だと考えている僕は、常々ピカソを見習いたいと思っていたが、このアドルフ・ヴェルフリ展を見てもう一度、死ぬまで制作を捨ててはいけないと再確認した次第である。


カウンター(since2011.1.1)
プロフィール

絵描きの山彊

Author:絵描きの山彊
山田彊一プロフィール
1964「ニューヨーク,日本人アーティスト14人展(最年少で選抜される。脇田和氏らと) 
1967 第6回シェル美術展(佳作賞)
1981 第3回中日美術展(大賞)
1982 第4回エンバ美術賞展(優秀賞)
1983 第5回宇部絵画トリエンナーレ展(優秀賞)
1984 第5回大阪現代版画コンクール展(優秀賞)
1985 第1回和歌山版画ビエンナーレ展(大賞)
1986 第2回IBM絵画コンクール(大賞)
1989 第11回エンバ美術賞展(準大賞)
1995 第1回中国・北京現代展(優秀賞)
1997 第8回大阪トリエンナーレ展(特別賞)
<著書>
『そして地獄・そして芸術』(ギャラリー安里)
『中学が爆発する』(風媒社)
『きしめん紳士が行く』(風媒社)
『ナゴ・ナラ』(アドア出版)
『おもしろ老後生活術』(黎明書房)
『ピカソはやっぱり名古屋人』(アドア出版)
『僕らにできる教育革命』(アドア出版)
『名古屋力 アート編』(ワイズ出版)  
『名古屋力 妖怪篇』(ワイズ出版) 
『妖怪インニューヨーク』(ワイズ出版)等                   

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